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奈良公園(奈良市)の料理旅館で文人ゆかりの酒を味わう(その1) - 大和酒蔵風物誌・第2回「江戸三から山乃かみへ」(奈良豊澤酒造)by侘助

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奈良のうま酒を楽しむ【読者プレゼントあり】

奈良公園にどっぷり浸かる 離れ屋敷の宿

 それは「江戸三」から始まった。「江戸三」といえば、奈良では有名な料理旅館で、奈良公園内の浅茅が原と呼ばれる一角、春日大社の一之鳥居の南東に広がる一帯に、数寄屋風の離れ屋敷を点在させることで知られる。大小さまざまな離れで、客たちは美しい懐石と奈良公園の緑深い風景を楽しむ。ときには鹿がひょっこり訪ねてきたりもする。公園にどっぷり浸かるという意味では、奈良で最も奈良らしさを堪能できる宿といっていい。

 

点在する江戸三の離れ屋敷

 

 この春に、仕事でたいへんお世話になった方が転勤されるというので、奈良の名残りを存分に味わって頂けそうなところを思いめぐらせたら、やはり江戸三がいいということになった。以前似たような宴席で訪ねたことはあったが、それももうずいぶん昔の話で、ここで食事をするのは久しぶりだった。先方はこちらが想像した以上に喜んでくださって、この送別の席の選択に幾度も感謝の言葉を繰り返した。

 

 美味しい料理に舌鼓を打つうちに日本酒を呑もうということになって、メニューを開いたら、奈良の有名な地酒に混じって「江戸三」という文字が並んでいる。ん?これは何だ?と思って仲居さんに尋ねると、「当館のオリジナル」で「社長がうちの料理に合うよう奈良の酒蔵さんにお願いして造ってもらったお酒」だという。面白いねえ、それは呑まない手はないねえ、と一同意見をともにして早速注文した。料理旅館だけあって、すっきりさっぱりタイプのお酒。名酒のなかには、たとえば前回紹介した熟成「呑鶴」のように、お酒として強烈な主張をする個性派が少なくないが、「江戸三」はむしろその逆で、自己主張は極力抑えて料理を引き立てる名脇役といったところ。料理とのバランスに細心の注意を払う発想から生まれたお酒で、これにもひとつのあり方として別の主張がある。料理が旨ければ進むのだから、当然、その夜は別れを惜しみながら皆でしこたま呑んだ。

 

 

 

江戸三と文人たち 志賀直哉 小林秀雄との交遊

 このお酒のことがどうにも気になって、後日江戸三の社長である大和隆氏を訪ねた。この老舗に関してはせいぜい冒頭に書いた程度の知識しかもちあわせていなかったので、大和社長に改めて江戸三の歴史について教えて頂いた。宿の建つ浅茅が原一帯は元々興福寺の土地で、辺りには塔頭が軒を並べていたという。それが明治の初め頃廃仏毀釈によって売りに出されて、これを当時の奈良晒の組合が買い受けて、当初今でいうスーパー銭湯のようなものを開業した。「隣にある『四季亭』さん(こちらも現在料理旅館となっている)のところがお風呂で、うちの建物は休憩所や食事処として使っていたようです。」と社長は話す。この施設は「奈良遊園」という名で、当時つくられた「奈良名所廻双六」に大仏や猿沢池とともに紹介されている。「これを明治40年に、今の江戸三の建物があるところをうちの初代が、四季亭さんのところを別の方がそれぞれ買ったのがそもそものはじまりです」。

 

奈良名所廻双六

 

 春日大社の参道脇にあることから、当初は参拝客向けの茶店として飲み物や食事を提供していた。大正時代はビアホールをしていたこともあったそうだが、ほどなく料亭として営業するようになった。それが戦後、奈良県から料亭では風紀が乱れるという理由で旅館にするよう指導を受けて、現在の料理旅館というかたちになった。奈良公園の中という絶好の立地に加えて、離れというどこか隠れ家的な魅力に惹かれて、志賀直哉、堂本印象、小林秀雄、藤田嗣治など多くの文人や画家が訪れた。

 

 

 大和社長によれば、祖父に当たる二代目が志賀直哉と親しかったそうだ。当時近所に家を借りて住んでいた志賀は、しょっちゅう江戸三を訪れて、友だちと食事をしたり、ときにはマージャンを楽しんだりした。奈良滞在中に全集を出版して儲かったので、家を買うか仏像を買うか迷っている志賀に、現在志賀直哉旧居として残っているあの屋敷を紹介したのは、二代目なのだそう。そんな縁から志賀のところを訪ねる文化人やその卵たちが自然と江戸三に集まるようになった。

 

ビアホールも営まれた

 

 

文壇を揺るがす略奪事件の行き着いた先

 そのうちのひとりが小林秀雄。東京大学仏文科を卒業したばかりでまだ文壇デビュー前だった小林が、奈良にいる志賀にファンレターを出したら、作家本人から励ましの手紙が返ってきた。それだけを当てにして奈良までやって来たというから驚きだ。昭和3年(1928)5月の終わりのことである。学校は卒業したものの職に就かずニート状態だから金もなかったことだろう。この無謀な若者の面倒を、文壇ではすでに大家に数えられていた志賀は何かとみてやった。生活費の足しにと、自分の孫の家庭教師を頼んだり、自分が依頼された講演の代理として小林を派遣したりした。住まいとして江戸三を紹介したのも志賀だったという。おかげで奈良にいるあいだ、この批評家の卵は恰好の下宿先をみつけることができた。大和社長によれば、当時、旅館として営業していたものの、一部はそうした文化人のための下宿としても開放していたそうである。

 

 

 ただ、伝えられる江戸三逗留中の小林の評判は芳しくない。酔って奈良ホテルの前の街燈を割ったり、寒いからといって部屋の裸電球をふとんに引き込んで火事を起こしかけたり、挙句の果てには、下宿代を払えずに志賀に肩代わりしてもらったり。実際、後に文壇で成功した小林は奈良滞在中のことについてあまり話したがらなかったという。

 

 小林のこの荒れた生活には原因があった。かれと詩人の中原中也との交流は有名である。まだ東大在学中の小林に、共通の友人だった詩人の富永太郎が中也を紹介する。ボードレールやランボーなどフランス象徴主義から影響を受けたかれらの文学嗜好は似ていた。たちまち意気投合し頻繁に行き来することになる。ダダイズムに熱狂する未完の詩人とフランス現代文学に精通する文学青年に化学反応が起こらないわけがなかった。熱い文学談義を通じて若いかれらが互いの繊細な感性を刺激し合ったのは想像に難くない。

 

 ところが、小林が中也のところに通ううちに、当時中也と同棲していた恋人長谷川泰子に惚れてしまう。中也との関係に飽き足らない思いでいた泰子もまんざらではなく、結局、ふたりは小林のところで同棲生活を始める。この略奪事件も日本近代文学史のうえでは有名な話。恋人を奪われた中也は平気を装いながらもなお泰子を慕い続けた。そしてそれがかれの詩作の原動力の一部にもなった。いっぽう、小林と泰子の蜜月生活は長く続かなかった。泰子が極度の潔癖症で、それはヒステリー症状を伴い、日常生活に支障をきたすほどだった。引っ越しをするなどして小林は何とかこれを癒そうとするが効き目はなく、ヒステリーの矛先はその都度小林に向けられた。そんな生活に嫌気がさした小林は、あるとき些細な喧嘩がきっかけで家出をする。そして向かった先が奈良だった。(その2につづく)

 

 

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