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【ことなら’23秋】奈良は中世も面白い―天野忠幸さんインタビュー - 対照的な筒井順慶・松永久秀の両雄、大和で覇権争い

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 奈良は中世も面白い―。古代史のロマン漂う飛鳥時代や奈良時代に注目が集まる奈良だが、実は中世の見どころも数多くある。中世の中でも戦国時代の大和(奈良)について天野忠幸・天理大学教授(47)に話を聞いた。

 

インタビュー
天理大学教授 天野 忠幸さん

「奈良は古代とお寺が豊富だが、中世のお城を巡ってほしい」と語る天野忠幸教授=天理市杣之内町の天理大学

 

松永久秀 VS筒井順慶

対照的な両雄が大和で覇権争い

 

梟雄?松永久秀の本当の姿とは

三好家再興を目指した忠臣

 

日和見?筒井順慶が大和を守る

信長の力を借りて勝利

 

奈良は中世も面白い

 ―奈良の戦国時代も面白いですね。

 奈良の戦国武将というと筒井順慶と松永久秀です。順慶は興福寺(奈良市)の衆徒で同寺を守る立場。一方、久秀は父の名すら分からず、才覚のみでのし上がります。宗教勢力の大和の名門と、武家勢力のどこの馬の骨か分からないところから成り上がった武士。二人は正反対の象徴的な立場にいました。

 

松永久秀とは

 ―松永久秀はどんな人物ですか。

 松永久秀はフクロウのようにずるがしこい梟雄(きゅうゆう)のイメージが持たれていますが、それは江戸時代以降に出来上がったものです。久秀が生きている時代の古文書からは、梟雄の人物像は読み取れません。

 

 むしろ取り立ててもらった主君・三好長慶の恩義に報いようとし過ぎるくらいです。長慶に忠義を尽くすばかりでなく、長慶の死後も長慶の甥(おい)義継を擁立して三好家を再興しようとします。

 

 確かに久秀は、義継を中心に近畿の覇権を握ろうとし、同盟を結んでいた将軍足利義昭や織田信長と戦う道へ進んでしまいました。ただ久秀は「俺が実権を握って」という感じではなく、三好家に尽くす義理堅いところが見えてきます。

 

筒井順慶とは

 ―順慶はどんな人物だったのでしょう。

 中世の大和には守護が置かれず、興福寺が実質的に権力を持ってきました。筒井順慶の筒井家は、16世紀には興福寺の官符衆徒(かんぷしゅと)棟梁の地位をほぼ独占していました。順慶が2歳の頃、父順昭が天然痘で亡くなります。順慶は家督を継ぎますが、筒井家で内紛が起きるなどして幼少期から苦労しました。

 

 1559(永禄2)年、大和に松永久秀が侵攻してきます。久秀は順慶の居城である筒井城(大和郡山市)を落とし、大和を支配するようになりました。長い戦いの末、最終的には順慶が織田信長の力を借りて勝ちますが、常にライバルの久秀がのしかかってくる波乱の人生でした。

 

 ―久秀死後の順慶は。

 筒井順慶と織田信長との関係がとても面白くて、信長はとにかく各地で相手を攻め滅ぼしていき、尾張出身者にその国を与えて支配させます。ただ大和だけはそれでは治まらなかった。地元武士として生き残り、国主級で国を仕切ったのは順慶だけです。そういう意味で、順慶は信長からも大和を守ったと言えます。

 

 明智光秀に攻められて信長が自害する本能寺の変で、順慶は面白い動きをしています。当日は奈良から京に向かっていましたが、変を知ると慎重になり、様子を見ようと大和へ戻ってしまいます。それにより信長の長男、信忠も自害してしまいます。信忠と光秀のどちらに味方するのか、実は順慶は重要な局面にありました。

 

 本能寺の変後の山崎の戦いでも、順慶が秀吉と織田信孝の側に付いたおかげで、秀吉は光秀に圧勝しました。どの人物の視点で本能寺の変や山崎の戦いを見るかはとても面白いです。

 

ゆかりの地

 ―奈良県内の久秀と順慶のゆかりの地といえば。

 松永久秀が大和に入り、最初に改修して拠点にした城が信貴山城(平群町)です。信貴山朝護孫子寺の境内、信貴山頂には堀や土塁などの痕跡が残っています。

 

松永久秀が改修して拠点にした信貴山城跡=平群町信貴山

 

 久秀は1561(永禄4)年に、奈良盆地の北端の佐保丘陵に多聞山城(奈良市)を築き始めます。同城には「四回ヤクラ」と呼ばれる建物がありました。当時の既存の高層建築物といえば五重塔などを持つ寺院です。大和を支配しようとする久秀にとって、目の前にある日本最強の宗教拠点、興福寺より自分がすごいことを示すには、高層のものをつくる必要があったのでしょう。近世のような城を高層化させる思想は奈良から生み出された可能性があります。

 

 多聞山城跡は現在中学校で見学できませんが、学校前まで行くと興福寺など市街地が一望できます。近鉄奈良駅の北側「きたまち」の奈良女子大学付近は久秀が三好三人衆や順慶との市街戦の際に築城した宿院城があった場所です。

 

 久秀は織田信長勢に攻められて信貴山城で最期を遂げます。王寺町の達磨寺には久秀の墓と伝わる石塔が、三郷町には久秀の供養塔とされる五輪塔があります。

 

松永久秀の墓と伝わる石塔=王寺町本町2の達磨寺

 

 筒井順慶は筒井城を拠点にし、晩年には信長から与えられた郡山城(大和郡山市)に入城します。郡山城は多聞山城から石を運び築城したとされます。同市には順慶の墓所とされる五輪塔覆堂(ごりんとうおおいどう)があります。

 

筒井順慶が拠点とした筒井城跡=大和郡山市筒井町

 

筒井順慶の墓所とされる五輪塔覆堂=大和郡山市長安寺町

 

 二人の戦いに関係する場所では、奈良市での市街地戦で東大寺大仏殿が焼失しています。奈良市辰市周辺で起きた辰市の戦いは、久秀から順慶へ勢力構図が傾く転換点となりました。

 

柳生石舟斎と島左近

 ―2人以外で注目の戦国武将はいますか。

 大和では柳生石舟斎(宗厳)と島左近も面白い存在です。石舟斎は当初筒井家に仕えましたが、その後は久秀に仕えて接近した人物です。のちに家康の前で無刀取りの妙技を披露しました。奈良市柳生町は山岡荘八原作の大河ドラマ「春の坂道」の舞台となったことでも知られています。

 

 左近は平群町ゆかりの武将とされます。奈良県内での実績はほとんど分かりませんが、石田三成から破格の厚遇で側近として迎えられ、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」とうたわれた人物です。

 

 奈良の人にとっては、石舟斎と左近が今年の大河ドラマ「どうする家康」で今後登場するのかも注目ですね。

 

 奈良のお城は魅力があります。奈良は古代と寺が豊富ですが、プラスして中世の城を巡っていただければと思います。もちろん山城に登るときは足元に十分気を付けてください。

 

 

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