病苦を除き幸福を祈る絢爛(けんらん)たる復興伽藍 - 薬師寺・大和古社寺巡礼 014
薬師寺(薬師寺)
※社寺名は、基本的に現在使われている名称によりました。
※( )内は、神社は『延喜式』神名帳による表記、寺院は史料にみえる表記です。
※記事中の写真の無断転載を禁止します。
天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って発願された寺院で、持統天皇の御代に藤原京で本尊の開眼法要が行われ、平城遷都とともに奈良に遷(うつ)った古代寺院。
エリア/奈良市
ご本尊/薬師三尊(白鳳時代・国宝)
ご霊験/心身安楽・無病息災
宗 派/法相宗
縁 起
天武天皇が、鵜野讃良(うののさらら)皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って、天武9(680)年に薬師寺の建立を発願されました(『日本書紀』)。
しかし天武天皇が崩御され、天皇の思いを継いだ持統天皇が藤原京において造営。天武天皇の百か日に無遮大会(国王が施主となり、僧俗貴賤上下の区別なく供養布施する法会/日本古典文学大系『日本書紀』下の注)が行われた五つの寺の中には薬師寺の名は見えませんが、持統2(688)年には「無遮大会を薬師寺に設く」(『日本書紀』)とあり伽藍(がらん)の建設が進んでいたようです。
持統11(697)年には開眼法要が行われています。この時代の薬師寺は、今も本薬師寺(橿原市)として金堂跡などの礎石が残っています。
和銅3(710)年の平城京遷都に際して、法興寺などとともに奈良の都の現在の地(当時の右京六条二坊)に遷りました。薬師寺の本尊や東塔などはこの時に移されたという説と、新しい地で造られたとする説があります。
大伽藍を誇った薬師寺も、戦国時代の享禄元(1528)年の兵火などで伽藍の多くを失いましたが、昭和43(1968)年から始められたお写経勧進による白鳳伽藍復興によって往時の姿が蘇(よみが)えりつつあります。平成10(1998)年には「古都奈良の文化財」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されました。
「南都西京薬師寺古伽藍図」(江戸時代)は版画が作られた当時の伽藍復元想像図。「こたひ往昔の壮麗を知らさんがために古伽藍の図を模して世に弘むるものなり」と記し、当時存在した堂宇には◯印が付けられています。
ご本尊
薬師三尊像
薬師寺の本尊は、薬師三尊(薬師如来と日光菩薩<ぼさつ>・月光菩薩)。薬師如来は正しくは東方浄瑠璃浄土薬師瑠璃光如来といい、また大医王とも称され、人々の病気や災難を除いて健康と幸福を守って下さる仏さまです。また日光・月光菩薩は、日月のように人々を見守る菩薩様です。
境内参拝・気が付かなければ…
※📸は撮影ポイント
休ケ岡八幡宮(重要文化財) 📸
薬師寺南門の南側に鎮座する休ケ岡八幡宮。寛平年間(889〜898年)に薬師寺の別当・栄紹が、薬師寺の鎮守として宇佐(大分県)の八幡神を勧請しました。現社殿は慶長8(1603)年に再建されたものです。
休ケ岡という名は、貞観年間(859〜877年)に大安寺の僧・行教が大安寺に宇佐の八幡神を勧請された時に、八幡神が休憩された事にちなんでいます。
南門 📸
南門からは東・西の三重塔が望め、参拝者を白鳳の昔に誘います。
手水
参拝の前に「六根清浄」と記された大きな蓮(はす)の花から流れる水で、心身を清浄に。六根とは、煩悩、執着の元となる認識の根源としての眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根です。
中門
発掘調査の成果に基づいて再建された門で、門の東西の二天王像が参拝者を迎えてくれます。この像は平山郁夫画伯の指導の下、辻本干也氏が制作しました。
金堂
かつての金堂は、「其ノ仏壇ハ、瑠璃(めのう)ヲ以テ地ヲ敷キ、黄金ヲ以テ道ヲ堺シ、瑪瑙ヲ以テ壇ノ鬘ト為シ、蘇芳(すおう)ヲ以テ高欄ト為シ」(大江親道『七大寺巡礼私記』/平安時代)というように、薬師瑠璃光如来の仏殿にふさわしいものでした。
この金堂は戦禍によって失われ、現在の金堂は「百万巻写経勧進」によって昭和51(1976)年に再建されました。
ご本尊の薬師三尊に、ご真言「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」と三度唱えてお参りしましょう。
薬師寺の薬師如来には、手の曼網相(まんもうそう)、胸の卍文、足の千輻輪(せんぷくりん)文、双魚文など、如来の特徴を表す三十二相の模様が線刻されています。