聖なる山・三輪山をまつる原初の祭祀の姿 - 大神神社・大和古社寺巡礼 003
大神神社(大神大物主神社)
※社寺名は、基本的に現在使われている名称によりました。
※( )内は、神社は『延喜式』神名帳による表記、寺院は史料にみえる表記です。
※記事中の写真の無断転載を禁止します。
いにしえより本殿を設けずに、ご祭神の大物主大神が鎮まる聖なる山・三輪山を拝殿奥の三ツ鳥居を通して拝するという、原初の神祀(まつ)りの姿を伝える古社。
エリア/桜井市
主祭神/大物主大神
配祀神/大己貴神・少彦名神
ご霊験/産業開発・方除・治病・造酒・製薬・禁厭・交通安全・縁結び
ご由緒
三輪山をご神体山として祀るという、古い祭祀の姿を今に伝える大神神社は、日本最古の神社のひとつ。
『古事記』の神話には、少彦名神(すくなひこなのかみ)と共に出雲で国づくりを進めていた大国主神(大己貴大神=(おおなむちのかみ)が、少彦名神が去って途方にくれていたところに、海を照らして神が顕(あらわ)れ、「吾を祀れば共に国づくりを完成させよう」「大和の青垣の東の山の上(三輪山)に祀れ」と言われたことが記されています。
また『日本書紀』では、海を照らして来た神は大国主神(またの名を大物主神)の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)だとし、この神は大三輪の神だとしています。
今もその多くが禁足地となっている三輪山の祭祀(さいし)は、古くは山麓での祭祀(山の神遺跡など)と山中での祭祀が行われており、祭祀遺跡からは子持勾玉(まがたま)や臼玉、須恵器、酒造関係祭具の土製模造品などが出土しています。
また『記』・『紀』には三輪山の神に関する記述も多く、例えば活玉依比売(いくたまよりひめ)や倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)との神婚説話はよく知られています。
江戸時代の地誌「大和名所図会」では、本殿はなく拝殿の後ろに三輪鳥居(三ツ鳥居)が描かれています。参道には現在と同じように祓処やフウフ石(夫婦岩)があり、最後の階段を登り切ったところには楼門がありました(現在は〆柱)。
主祭神と配祀神
大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
神名は「もの」(精霊・御魂)を司られる大いなる神で、災なす精霊(もの)をも鎮める力を持たれます。
大己貴神(おおなむちのかみ)
大国主神として知られる国づくりの神。大穴持神などとも称され、『出雲国風土記』では「天の下造らしし神」とされています。
少彦名神(すくなひこなのかみ)
大己貴神とともに国づくりをされた神で、薬の神としても知られています。
大物主大神は三輪山頂上の奥津磐座(おきついわくら)に、大己貴神は中腹の中津磐座(なかついわくら)、少彦名神は麓の辺津磐座(へついわくら)に、それぞれお祀りされています。
境内参拝・気が付かなければ…
※📸は撮影ポイント
※スマホを見ながら散策できるように、モデル順路
一の鳥居
大神神社によく参拝される人でも、一の鳥居を知っている人は少ないのでは。国道に面したランドマークともなっている大鳥居の東南側、旧参道に一の鳥居があります。
祓戸神社・夫婦岩・手水舎
二の鳥居をくぐり、御手洗橋を渡った左手に祓戸(はらえど)神社が。まずここをお参りして身を清めましょう。
隣の夫婦岩は磐座がふたつ鎮座します。
そして手水舎で手水を。手水舎の水船には、よく見ると「応永廿一(1414)年八月」の銘が刻まれています。
〆柱 📸
石の階段を登ると、〆柱に注連縄が掛かっています。江戸時代には楼門があった所です(『大和名所図会』参照)。
〆柱を通って、拝殿前で二礼二拍手一礼のお作法で参拝
拝殿(重要文化財)
拝殿は寛文4(1664)年に徳川家綱により再建されました。
巳の神杉
拝殿手前右の、玉垣に囲まれた杉の木は「巳(み)の神杉」。卵のお供えを見ることがありますが、これは崇敬者による御祭神の化身ともされる「巳さん」(蛇)へのお供え。
『古事記』や『日本書紀』に記載される、姫と蛇の姿となった三輪山の神の説話が、いまも息づいています。「巳さん」の写真は、撮らないように…。
摂社・活日神社(一夜酒神社)
「うま酒」が三輪の枕詞であり、酒の神としても知られる大神神社。『日本書紀』には崇神天皇8年に、高橋邑(むら)の人である活日(いくひ)を大神の酒人(酒造の管掌者)としたこと、大神の祭りを行った際に活日が神酒を捧げて歌を歌ったことが記されています。御祭神は、この高橋活日命。
11月の醸造安全祈願祭の後、蔵元の軒先に吊るす「しるしの杉玉」(酒ばやし)が配られています。
摂社・磐座神社
御祭神は少彦名命。磐座(いわくら)は神様が宿られる磐。磐座神社の磐座を拝すると、三輪山山中の磐座に思いをはせることができます。
三島由紀夫の揮毫「清明」碑
三島由紀夫最後の作品『豊饒の海』には、度々奈良の地が登場します。第二部の「奔馬」には大神神社が描かれています。この取材のために訪れた三島は、神社の印象を「清明」という言葉に表しました。
摂社・狭井神社(狭井坐大神荒魂神社)
大神神社が大己貴神の和魂(大物主大神)を祀るのに対し、狭井(さい)神社は荒魂(あらみたま)をお祀りしています。
春、花の散る頃に病を起こす疫神を鎮めるための祭祀「鎮花祭」が斎行されることでも知られます。
境内には狭井の井戸があり、霊験あらたかな神水としてくむ人が絶えません。
摂社・檜原神社 📸
崇神天皇の時代に、それまで宮中内でお祀りされていた天照大御神を、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して遷(うつ)し奉祀した元伊勢・倭磯城笠縫邑(やまとしきのかさぬいのむら)の旧跡。檜原(ひばら)は、日原とも伝えられてきました。
檜原神社も拝殿を通して三輪山を拝する形でしたが、現在は三輪鳥居(三ツ鳥居)のみが残っています。
檜原神社の西方正面には二上山が望め、春分・秋分の日の前後には、二上山に夕日が沈む美しい光景が。「二上山を正面に眺望できる檜原神社境内」として奈良県景観資産に登録されています。
歴史のなかの大神神社
三輪と出雲
大神神社の創祀について『記』・『紀』の出雲神話のなかで語られるなど、大神神社と出雲国は深い関係にあります。
出雲国の国造(くにのみやつこ)の新任儀礼で奏上された「出雲国造神賀詞(かむよごと)」でも、「己命(大穴持命=大国主神)の和魂を八咫(やた)の鏡に取り託けて倭の大物主櫛𤭖魂命(おおものぬしくしみかたまのみこと)と名を称へて大御和(大三輪)の神奈備に坐せ」とあるのです。
また三輪山山麓には「出雲」「出雲屋敷」という地名も残っています。出雲国の神が大和に遷ったという神話とは逆に、三輪の神が出雲国に移ったとする学説もあります。