歴史文化

【トピック】首子遺跡の性格は 古道、石材、石棺から再評価 - 奈良県葛城市歴史博物館の春季企画展

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 奈良県葛城市歴史博物館の春季企画展「二上山麓を辿(たど)る道ー葛城の古道を辿る2ー」(7月10日まで)で、従来あまり注目されてこなかった遺跡に光が当てられている。古墳時代から飛鳥時代に営まれた同市の首子遺跡だ。その性格について、二上山周辺の古道や採石された石材、古墳時代に作られた石棺に着目して再評価が試みられている。浮かび上がるその姿とは。

 

 

うかがわせる地域首長の存在

 首子遺跡は二上山の東麓に位置。遺跡の推定範囲は東西約560m、南北約400m。これまでの発掘調査で、古墳時代中期~後期(5~6世紀)の倉庫とみられる掘っ建て柱建物6棟や、古墳時代後期(6世紀)の竪穴住居1棟を検出。柵に囲まれた7世紀前半の大規模な掘っ建て柱建物も見つかっていて、地域首長の存在をうかがわせる。

 

 遺跡内には首子古墳群がある。「首子塚古墳」と呼ばれる首子5号墳は、6世紀前半の帆立貝形円墳(全長25m)。同古墳が築かれて以降、7世紀前半まで古墳の築造が続いた。

 

「首子塚古墳」と呼ばれている首子5号墳。左奥には当麻寺の東西両塔が見える=葛城市当麻

 

 瓦も出土していて、7世紀前半には小規模な仏堂が存在したようだ。7世紀後半の礎石建物の基壇も確認されており、同時期には寺院として整備された。「只塚廃寺」と呼ばれ、塼仏(せんぶつ)や石造仏頭、石造菩薩立像も出土している。

 

 首子遺跡を営んだ集団は、古墳群を造営するとともに、自らの集落の近くに寺院を建立。只塚廃寺はやがて、西方極楽浄土を表した「當麻曼荼羅(まんだら)」の信仰や中将姫伝説で知られる古代寺院、当麻寺へ移転したと想定されている。

 

首子遺跡内にある只塚廃寺の基壇跡=葛城市染野

 

 首子遺跡の南約500mには竹内(たけのうち)遺跡がある。発掘調査で、竹内街道に並行するように掘られた5世紀の大溝を検出。多数の初期須恵器も出土していることから、河内地域(大阪側)で生産された須恵器などを奈良盆地各地に供給するための物流拠点だったと考えられている。

 

 竹内遺跡の中心は竹内街道(竹内峠越え)の交通路出入り口付近とみられている。竹内街道はのちの官道「横大路」と直結するルート。交通の要衝に位置する竹内遺跡ばかりが注目され、首子遺跡が評価されることは少なかった。

首子遺跡の周辺

 

 

岩屋峠越えと凝灰岩

 葛城市歴史博物館の春季企画展では、首子遺跡をめぐる三つのポイントに注目する。

 

 一つ目は「岩屋峠越え」。二上山雌岳(標高474m)の南側の岩屋峠を越える、奈良と大阪を結ぶ交通路だ。大阪府太子町側からは、竹内街道から分かれて岩屋峠を越え、奈良県葛城市側の首子遺跡の西方から当麻寺の北を抜ける。

 

 竹内街道との分岐点では、左脇へそれて登っていくと鹿谷寺跡(同府太子町)が存在する。凝灰岩の岩盤を掘り込んで造られた奈良時代の寺院跡で国史跡。凝灰岩製の十三重塔や三尊仏が線刻された石窟が残る。

 

凝灰岩の岩盤を掘り込んで造られた鹿谷寺跡。十三重石塔や石窟が残る=大阪府太子町

 

 竹内街道との分岐点に戻り、岩屋峠越えの道を上がると、見えてくるのは岩屋(同府太子町)。岩屋峠の名前の由来となった場所で、こちらも国史跡。凝灰岩の露頭を掘り込み、石造三重塔を納めた大岩窟と小岩窟がある。大岩窟には北壁に三尊仏が刻まれている。

 

岩屋峠の名前の由来にもなった岩屋。凝灰岩の露頭を掘り込んでいる=大阪府太子町

 

 江戸時代に刊行された絵入りの名所地誌「西国三十三所名所図会」(1850年)は、岩屋峠越えを河内側から当麻寺に参詣する道として紹介。そして「道すこぶる難所多し」と記している。現在の岩屋峠も、奈良側は狭くて急峻だ。

 

奈良県側から見た岩屋峠。峠を越える道は「西国三十三所名所図会」に難所の多い道として紹介されている

 

 企画展が注目するポイントの二つ目は、岩屋峠周辺で採石される凝灰岩。

 

 凝灰岩は古墳時代後期に盛んにつくられた家形石棺の石材として使用された。その後、古墳時代終末期には横口式石槨(せっかく)、飛鳥・奈良時代には寺院や宮の建築材として用いられた。

 

 岩屋や鹿谷寺跡もかつての凝灰岩の採石地を利用したとされる。周辺では現在も古代の石切場の跡が残っており、葛城市歴史博物館の神庭滋課長補佐は「切り出した石材を運び出すために整備されたのが、岩屋峠の始まりだったのではないか」と推測する。

 

現在も残る古代の石切場跡=大阪府太子町

 

凝灰岩を使った家形石棺

 企画展で注目する三つ目は、その二上山産の凝灰岩を使った家形石棺。

 

 葛城市を含む奈良盆地南西部で約60基が確認されており、うち約20基が二上山から葛城山にかけての周辺地域に分布する。中でも二上山周辺地域では早くから組み合わせ式の家形石棺が採用された。

 

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