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天理にあった「大和の日光」 栄華誇った寺が突然消えた真相 - 大和酒蔵風物誌・第3回「稲乃花 瑠璃」(稲田酒造)by侘助(その2)

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消え去った寺院「内山永久寺」へ

 本来であれば、天理駅のほうを向いて帰るところだが、実は、今回蔵巡りの他にもうひとつ行ってみたいところがあった。それは内山永久寺跡。江戸時代までは「大和の日光」といわれるほど栄華を極めたお寺がかつて奈良県天理市の杣之内あたりにあった。それが明治初頭の廃仏毀釈がきっかけで廃寺になった。伽藍がまったく残っていないのであまり知られていないが、以前から話だけは聞いていて一度訪ねてみたいと思っていた。だから、永久寺跡を目指して、帰る方向とは逆の東を向いて歩きはじめた。


 目的地は石上神宮から山の辺の道を南に1キロほど歩いたところにある。だが、一見するだけでは、そこがかつての大寺院だったとはわからない。というのも、辛うじて残っているのが境内の中心にあったとされる池のみで、これとて県内のあちこちでみられる溜池とみかけはかわらないうえに、その周辺を果樹園が囲み、どこにでもある山あいの風景と何ら変わるところがないからである。山の辺の道ルートでは石上神宮の次の観光ポイントに当たるが、池のほとりに建てられた芭蕉の句碑や往時の永久寺の絵図の石板のある休憩所がなければ、そのまま通り過ぎてしまうところだ。現在の永久寺跡はそれほどに何もない。

 

芭蕉の句碑


 だが、ここは少なくとも江戸時代までは大寺院だった。平安末期の永久年間(1113~18)に鳥羽院の勅願によって創建され、初め興福寺の大乗院頼実の隠居所として発足するが、その跡を継いだ尋範によって寺容が拡大された。近世になると大乗院に代わって上乗院が院主となって、興福寺から独立して真言宗寺院となる。寺領として971石あったというから、大和国内では興福寺、東大寺、金峯山寺、法隆寺に次ぐ規模で、當麻寺や長谷寺よりもはるかに大きかった。境内には本堂と回遊式庭園の池を中心に50以上の堂宇があって、案内所の当時の絵図をみると、この山あい一帯が伽藍で埋め尽くされている様子が伺える。まさに大寺院である。

 

和州内山永久寺之図(天理大学蔵)

 

廃仏毀釈と永久寺、その真相~天理大学幡鎌教授に聞く

 数百年にわたって威容を誇った名刹が維新の廃仏毀釈を機に跡形もなく消滅する。廃仏毀釈というと、明治新政府による神仏分離令を発端として、寺院が旧勢力や既得権の象徴とみなされ、民衆から伽藍や仏像、仏具を破壊されたというイメージが先行する。実際、永久寺についても、明治から昭和初期に活躍した文部官僚で東京美術学校の五代目校長を務めた正木直彦氏による証言が残っていて、その要旨をまとめると次のようになる。


 正木氏の母親の実家が天理の井戸堂にあって、その村人によれば、廃仏毀釈の検分のために永久寺に役人が訪れたところ、その寺の和尚が「私は今日から坊主をやめて神道になります」といって、本尊の文殊菩薩を担ぎだしてきて薪割りでかち割った。役人は「けしからん坊主だ」といって坊主を放逐してしまった。そして寺の目ぼしい仏像、仏画、仏具を村の庄屋に預けた。だが、その後へは村の百姓が闖入して、器物、米味噌等を手当たり次第に略奪した。当のその村人も寺から掛け軸を持ち帰った。庄屋に預けられた寺宝は後に役人から「如何様とも処分勝手たるべし」と言い渡されたので、道具屋へ売り渡した。非常に貴重なものが多かったそうだ。


 こんな証言に触れると、永久寺も他の多くの寺院のように廃仏毀釈の典型的な犠牲者のようにみえる。だが、本稿の永久寺関連の情報を参照させてもらっている論文「内山永久寺はなぜなくなったのか」(天理大学史文会編『史文第22号』所収)の著者である天理大学の幡鎌一弘教授によると、事はそんな単純ではないそうだ。後日大学で幡鎌先生に直接お話を伺ったところ、まずもって永久寺廃寺を廃仏毀釈という一視点だけで説明するのは正確ではないという。


 「廃仏毀釈運動は地方によってそれぞれ特徴があって、一般にいわれているように全国でいっせいに寺院が民衆によって破壊されたというわけではありません。永久寺もよくよく調べると50以上あった塔頭のなかで藤原家から来ているのは院主の上乗院くらいで、あとはほとんどが近隣の村の有力者たちがお坊さんも含めて塔頭の面倒をみていました。お寺全体で971石といってもひとつの塔頭の分け前は微々たるものです。当然それだけで塔頭は維持できないので、村の有力者たちがそれぞれ寄付をして助ける。そうすることがかれらにとっては名誉であり、家格を上げることにもつながった。ですから、廃仏毀釈が語られるときのお寺対民衆という構図はここには当てはまらないんですね。むしろ、上乗院以外のほとんどは民衆である村のものだった。そうすると「村人が略奪した」という表現は筋違いで、正確にいえば村人は元々自分たちの資産だったものを取り返したというべきです。正木さんの話はそれこそ話半分で聞いておいたほうがいいと思います。加えて、永久寺を「大和の日光」とする記録も江戸時代にはなく、近代になって生み出された言説とみるべきです。このお寺に関しては、詳しく調べると、事実と違った伝えられ方をしている場合がままあります」。

 

旧山口村(今の杣之内町)に伝わる永久寺図


 へぇ~、面白いな。やっぱり専門家には尋ねてみるものだなと改めて思う。永久寺廃寺については一般的な廃仏毀釈による説明がほとんどで、こんな詳しいところまでの言及はない。さらに先生によると、廃仏毀釈が進行するなかで、財産における公私の区別はしっかりとつけられていたという。だから、公であるお寺の財産は接収の対象になったが、塔頭は私的な財産として所有者のものとされた。だからもし塔頭にお坊さんがいれば処分はされない。そのお坊さんの私的財産として保護された。したがって、永久寺の塔頭にももしお坊さんがいれば守られていた可能性は十分にある。では、お寺の本体部分はともかく、なぜ塔頭のひとつも残されなかったのか。


 「そもそも明治維新の頃の永久寺の52の塔頭のうち住職がいたのは18か院のみで、残りの坊は無住でした。慶応4年3月に社僧還俗令が発せられると、永久寺では最後の座主となった上乗院亮珍が同年8月に還俗し、翌月には他の僧侶たちの還俗願いを役所に提出しています。つまりお寺のトップはいち早く僧であることを放棄し、他のお坊さんたちもそれに習った。お寺にお坊さんがいなくなったわけです。これでは私有財産と認められる塔頭がなくなってしまうのも無理ないですね。亮珍のその後の行動を調べると、華族への叙爵を熱心に嘆願しています。かれは藤原氏でも最も家格の高い鷹司家の出身で、一山の長としているよりも貴族に戻りたかったのだと思います。その証拠にかれの息子の代になっても嘆願を続けています。もっとも、結局その願いもかないませんでしたが。少なくとも、お寺のなかの序列からいえば亮珍は別格だったわけで、他の僧侶がかれに従わないという選択肢はなかったのだと思います」。(その3へ続く)

 

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