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【ことなら’23秋】歴史巡礼~ 奈良県大和郡山/ 信長、秀吉に仕え大和支配 郡山城初代城主 筒井順慶の足跡たどる

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 郡山城の初代城主である筒井順慶は1549(天文18)年、興福寺一乗院に属する有力衆徒で大和国を統治する戦国大名・筒井順昭の子として生まれた。織田信長の配下として数々の合戦で武功を立て、信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」以降は豊臣秀吉に仕え、1584(天正12)年、36歳でその生涯を閉じた。奈良県大和郡山市の各地に残る順慶の足跡をたどってみたい。

 

 

筒井城―蓮田広がる大規模な居城跡

 近鉄橿原線の筒井駅から東北へ5分ほど歩き細い路地を抜けると、「筒井順慶城趾」の石碑がある。長きにわたり筒井氏の居城とされた筒井城がいつ築かれたのか、定かにはなっていない。城域は南北約400メートル、東西約500メートル。平地部に築かれた中世の城郭としては大規模なものだった。

 

 現在は宅地や畑地、水田となっており、内曲輪(くるわ)と外曲輪を巡った堀跡が点在している。周辺は土質が柔らかく地下水も豊富な湿地帯であることから、大和の伝統野菜「筒井れんこん」の栽培地として知られ、蓮田が広がる。毎年7月下旬ごろから8月上旬には、白い美しいハスの花が辺り一面に咲き誇る。

 

立派な石碑が来訪者を迎える筒井城跡

 

筒井城跡の蓮田

 

 

環濠集落―戦国時代の自衛の城砦

 筒井城跡から東へ進むと、大和川流域に約1キロおきに環濠(かんごう)集落が分布している。環濠集落は大和の戦国乱世が生んだ自衛の集落で、堀の内外を土塁で盛り上げ、さらに外側に竹を植えることで防衛性を高めた。その中でも有名なのが、室町時代にさかのぼる稗田環濠集落。古事記の編さん者、稗田阿礼(ひえだのあれ)を祭る売太(めた)神社を中心に、約100件ほどの民家が連なる。

 

 集落は約260平方メートルの規模で、袋小路の通りもあるなど戦国時代には城砦(じょうさい)の役割を果たしていた。

 

 稗田環濠集落を佐保川沿いに南へと下ると番条環濠集落がある。東西200メートル、南北710メートルと大きく、西側の佐保川と東から流れ込む菩提仙川の合流地点に当たる。かつては河川交通の要衝で、筒井の港として栄えた。郡山城へも3キロほどの距離にあり、城下町の機能を支える物流拠点だった。

 

室町時代から今に残る稗田環濠集落

 

 

郡山城―順慶が築城、幕末まで要所に

 織田信長による1580(天正8)年の「大和一国破城命令」により、筒井城が廃城となり、順慶は郡山城へと移ることになる。郡山城の築城には奈良中の大工が集められ、信長の命を受けた明智光秀が視察に訪れるなど、相当な力の入れようだった。城下町には商家も移され、市が立つと塩や木綿、魚などの商いが盛んだったという。木屋ノ口、塩町、魚町などの町名が、当時のにぎわいをしのばせる。

 

 順慶の没後、1585(天正13)年に豊臣秀吉の弟、秀長が郡山城に入り、紀伊や和泉を含めた100万石の領主として郡山城を大規模に整備。関ケ原の戦いを経た1615(元和元)年には水野勝成が城主となり、以降は松平、本多、柳澤の譜代大名が城主を務めた。幕末まで幕藩体制における畿内の要所として機能した。

 

 順慶の墓所は近鉄橿原線の平端駅から住宅街を5分ほど歩いた筒井順慶歴史公園にある。園内に立つ五輪塔覆堂(ごりんとうおおいどう)は、1944(昭和19)年、国の重要文化財(建造物)に指定された。ぜひ訪れたい。

 

堅牢な石垣が残る郡山城跡

 

筒井順慶墓所の五輪塔覆堂

 

 

 

 

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