知恵と慈悲の光明 あまねく照らす大仏様 - 東大寺・大和古社寺巡礼 006
東大寺(東大寺や金光明四天王護国之寺ほか)
※社寺名は、基本的に現在使われている名称によりました。
※( )内は、神社は『延喜式』神名帳による表記、寺院は史料にみえる表記です。
※記事中の写真の無断転載を禁止します。
聖武天皇皇太子の菩提を弔う山房にはじまり、天下泰安・万民豊楽を願う「国分寺・国分尼寺建立の詔」によって建立された大和国国分寺を前身とし、盧舎那(るしゃな)大仏を本尊とする鎮護国家の官寺となった。南都七大寺のひとつ。
エリア/奈良市
ご本尊/盧舎那大仏(毘盧遮那大仏、奈良〜江戸時代)
ご利益/天下泰安・所願成就ほか
宗 派/華厳宗
ご由緒
東大寺の境内東部、法華堂のあるエリアは「上院」と称されていますが、ここに建てられた山房が前身寺院。この寺院が金鍾山寺となり、さらに天平13(741)年に出された聖武天皇の「国分寺・国分尼寺建立の詔」によって、全国に建立された国分寺のなかの大和国分寺(大和国 金光明寺=金光明四天王護国之寺)となりました。
また翌々年の「盧舎那大仏造顕の詔」によって紫香楽宮(しがらきのみや、滋賀県甲賀市)で大仏造立が始まりましたが、その後、都が平城京(奈良市)に戻ると、大和国国分寺で大仏の造立が再開。天平勝宝4(752)年には本尊の華厳経の教主・盧舎那大仏が開眼し、鎮護国家の官立大寺院・東大寺となりました。
現在の総合大学的な機能も有し、奈良時代には華厳・法相・三論・成実・倶舎・律の六宗を、また平安時代になると天台・真言を加えた八宗を兼学するようになり、多くの優れた僧侶を輩出しました。
平安末期には平氏による焼き討ちによって伽藍(がらん)は荒廃しましたが、大勧進職となった重源上人によって復興。さらに戦国時代にも戦禍によって再び大仏殿などが失われましたが、江戸時代の公慶上人によって復興することとなりました。このように常に多くの人々の思いと努力によって蘇えるという稀有な歴史を経て、今に法灯が受け継がれています。
「大和名所図会」には江戸期の東大寺の境内の様子がリアルに表現されており、現在の様子と比べてみると興味深い。鏡池は八幡池とされており、西側には茶店が描かれています。
ご本尊
盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ/毘盧遮那大仏とも)
『華厳経』に説かれる仏さまで、その名前は知恵と慈悲の光明をあまねく照らし出されていることを意味します。造顕の詔では、すべてのもの(動植物ことごとく)が栄えることを願って共に造ろうと呼びかけられました。
境内参拝・気が付かなければ…
※📸は撮影ポイント
※スマホを見ながら散策できるように、モデル順路
南大門
南大門(鎌倉時代、国宝)は、正治元(1199)年の上棟。金剛力士像(国宝)は運慶・快慶らの合作として知られています。ここでは向かって右が吽(うん)形像、左が阿(あ)形像となっていますが、一般的には左右反対の配置が多いようです。
南大門の石造の「石獅子」(鎌倉時代、重要文化財)は、鎌倉時代に東大寺を復興した重源が招聘(しょうへい)した南宋の石工、伊行末(いぎょうまつ)の作。よく見ると、東側の像にはオチンチンが付いています。鎌倉時代には大仏殿中門に安置されていたことが、『東大寺造立供養記』に記されています。
鏡池
参道を真っ直ぐに進むと、右手に鏡池があり、鏡池と揮毫(きごう)された石碑も立っています。池の中に厳島神社が祀(まつ)られています。かつては鏡池とは言わず、八幡池や八幡宮鏡池と称されていました。
それは鎌倉時代まで、この池の東南に手向山八幡宮の社殿があったからです。その後、八幡宮は現在の地に遷(うつ)されています。
大仏殿中門
中門(江戸時代、重要文化財)の左右には、持国天と兜跋(とばつ)毘沙門天が祀られています。右側の毘沙門天をささげているのは、なんと美しいお顔立ちの女神(地天)です。
写真家の入江泰吉氏は、同じく写真家・井上博道氏が撮影を担当した産経新聞社編『美の脇役』(淡交新社)のなかで、「この女神の場合、見た目には、ぐっと人間的で、白粉のにおい、とまではいいませんが…魅力を感じる顔です」としています。
大仏殿(金堂) 📸
大仏殿前の八角燈籠(奈良時代、国宝)には、4面に音声菩薩と呼ばれる楽器を奏でる天人が浮き彫りされています。横笛、竪笛、銅鈸子(どうばつし)、笙(しょう)を持ち、今にも動き出しそうな姿を見せています。
東大寺の本尊は盧舎那大仏(国宝)です。宝前で静かに手を合わせて礼拝しましょう。
殿内に展示されている本尊台座蓮弁のレプリカは、華厳経の世界観を描いた天平(奈良)時代の線刻仏画を間近に見ることができます。
本尊の両脇侍(江戸時代、重要文化財)は、向かって右の如意輪観音菩薩と左の虚空蔵菩薩。二尊とも神秘的な雰囲気をたたえています。大きすぎるので、あまり意識はされませんが、大仏様も三尊形式になっているのです。
戒壇院 📸
ちょっと遠回りになりますが、大仏様をお参りした後は戒壇院へ。
戒壇院・戒壇堂は、僧侶となる者が戒を受ける所です。日本に初めて正式に戒律を伝えた鑑真和上が、大仏殿前で聖武太上天皇や孝謙天皇などに授戒しましたが、その土壇の土を移してこの地に戒壇堂が設けられたと伝えられます。
現在の建物は江戸時代に再建されたものです。戒壇堂の塑造・四天王像(奈良時代、国宝)はよく知られています。
※戒壇堂は現在、修理などのために拝観できません。秋には拝観が再開される予定。
戒壇院(院はエリアを表わす言葉です)の周囲には「大界内相」「大界外相」の結界石が立てられています。これは戒壇院の境界(大界内相)、境内の境界(大界外相)を示し、聖域としての清浄を保つものです。
御拝壇
戒壇院の北西にある御拝壇は、「天皇が受戒のために戒壇院に入られる時、盧舎那仏を拝せられたところで、受戒されたあと大仏殿に参詣された」(筒井寛秀『誰も知らない東大寺』小学館)ということです。
中門跡
東大寺の中門(中御門)は慶長11(1606)年の焼失後に再建されることがなかったため、現在も「焼門」と通称されています。道の両側には、奈良時代の門の礎石がそのまま残っています。
大仏池を左手に見て進むと、右手前方に大仏殿が…