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日本最初の本格寺院 大仏様も日本最古 - 飛鳥寺・大和古社寺巡礼 002

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飛鳥寺(法興寺)

 ※社寺名は、基本的に現在使われている名称によりました。

 ※( )内は、神社が『延喜式』神名帳による表記、寺院が史料にみえる表記です。

 ※記事中の写真の無断転載を禁止します。

 

春の飛鳥寺

 

 エリア/明日香村

 

 ご本尊/釈迦如来(飛鳥時代)

 

 ご利益/心願成就ほか

 

 宗 派/真言宗豊山派

 

 

ご由緒

 飛鳥寺は古代の豪族・蘇我馬子の発願によって、推古天皇4(596)年に創建された日本で最初の本格的寺院です。寺名は法興寺、元興寺とも称されました(現在の正式名称は安居院〈あごいん〉)。

 

 発掘調査によって、創建当時の伽藍配置は、塔を中心に北および東・西に金堂を配し、回廊をめぐらした大きな寺院であったことが分かっています。また塔の心礎(塔の心柱を建てる礎石)には、仏舎利と宝物が納められていましたが、宝物は当時の古墳に埋納された品々と同じようなものでした。

 

 本尊の飛鳥大仏(釈迦=しゃか=如来坐像、重要文化財)は鞍作鳥(止利仏師)の作で、「日本書紀」には「(推古天皇)14(606)年の4月8日(釈迦の誕生日)に銅製の丈六の仏像を造り終えて、同日に元興寺の金堂に安置した」と記されています(『元興寺縁起』では同17=609=年)。制作年代の分かっている仏像では、日本最古の仏像です。

 

 また飛鳥大仏は創建当時と同じ位置に、同じ石造台座の上におられ、約千四百年にもわたって人々を見守っておられます。

 

 平城遷都とともに奈良に移り、元興寺となりました。

 

 飛鳥寺は、五重塔を中心に中金堂、東金堂、西金堂が並び建つ、一塔三金堂式の伽藍を有する寺院でした。

 

「飛鳥寺伽藍復元図」

 

 

ご本尊

釈迦如来

 仏教の開祖・釈迦牟尼世尊。紀元前5〜6世紀頃のインドでお生まれになり、菩提(ぼだい)樹の下で悟りを開かれました。飛鳥寺の釈迦如来像(重要文化財)は、現在は中尊のみですが、もとは釈迦三尊像であったと考えられています。

 

 

境内参拝・気が付かなければ…

 ※📸は撮影ポイント

 

飛鳥大仏の標石 📸 

 東側にある飛鳥寺の山門前では、力強く味わい深い文字が彫られた「飛鳥大佛」の標石が参拝者を迎えます。寛政4(1792)年の標石ですが、その台座は飛鳥時代の礎石が使われています。

 

台座に飛鳥時代の礎石が使用されている「飛鳥大佛」の標石

 

本堂は創建時の中金堂の位置に

 現在の寄せ棟造りの本堂は、江戸時代の文政9(1826)年に再建されました。現本堂の位置は、飛鳥時代に中金堂のあった所です。

 

飛鳥時代の中金堂の場所に建つ本堂

 

本堂参拝

 飛鳥寺の本尊は釈迦如来像。宝前に静座して「南無釈迦牟尼仏」と称えて礼拝。「南無」とは帰依します、お慕いしますという意味。インドのあいさつの言葉「ナマステ」(ナマス〈帰依〉・テ〈あなたに〉)のナマスからきています。

 

 ご本尊が座る石の台座は、創建当時の台座で、創建当時の位置に。この台座には左右の脇侍のためのものと考えられるホゾ穴があり、当初は釈迦三尊像であったようです。

 

飛鳥寺の本尊・釈迦如来像

 

中庭

 本堂からは、廊下を通って中庭も望め、南北朝時代の飛鳥寺形石灯籠や道標を見ることができます。また廊下の展示ケースには、飛鳥寺ほかで出土した貴重な瓦などが並べられています。

 

南北朝時代の飛鳥寺形石灯籠

 

境内の礎石 📸

 本堂の前に、さりげなく存在しているのは、創建当時(飛鳥時代)の中金堂の礎石です。まろやかな美しい形に、当時をしのんでください。

 

本堂前に存在する創建当時の中金堂の礎石

 

発掘された塔の跡

 飛鳥寺は崇峻天皇の時代に造営が始められたと考えられ、推古天皇元(593)年には、塔の心礎(心柱の礎石)の中に仏舎利が納められたことが「日本書紀」に記されています。

 

 この心礎の発掘調査に際しては、舎利容器(鎌倉初期の塔の焼失後に再埋納された容器)のほかに、古墳の副葬品と共通する馬鈴、管玉、勾玉(まがたま)などのほか、寺院の鎮壇具としての金銀の延べ板などが出土しました。境内にはこの心礎の位置が表示されています。

 

表示されている塔心礎の位置

 

塀の外は、いにしえしのぶ真神原

 真神原(まがみはら)は明日香村の中心地で、飛鳥寺周辺の低湿地の呼称です。「万葉集」にも「大口の 真神の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家に至りきや」などの歌が残っています。境内南側の塀越しに真神原を望めば、飛鳥時代にタイムスリップ。

 

 「日本書紀」の「崇峻天皇紀」の元年には「法興寺を造り始める。この地を飛鳥の真神原と名付ける」とあり、法興寺(飛鳥寺)を建立する際に真神原と名付けたとしています。

 

境内南側の塀越しに望む真神原

 

入鹿の首塚 📸

 蘇我入鹿は、大化の改新の端緒となった「乙巳(いっし)の変」(645年)で、中大兄皇子と中臣鎌足によって討たれます。首塚は、討たれた時に首が飛んで来たとも、首を供養した塚だともいわれています。入鹿は、飛鳥寺を発願した馬子の孫に当たります。

 

乙巳の変で討たれた蘇我入鹿の首が飛んで来たなどと伝わる「入鹿の首塚」

 

飛鳥の集落 📸

 飛鳥寺を東へ出て、山門の前の道を左に進むとすぐに飛鳥坐神社に向かう参道に突き当たります。ここが明日香村大字飛鳥の集落。家並みが懐かしい風情を漂わせています。

飛鳥坐神社に向かう参道

 

家並みが懐かしい風情を漂わせる飛鳥の集落

 

近くには酒船石遺跡も

 酒船石や亀形石造物で知られる酒船石遺跡は、飛鳥寺の南方約500㍍。斉明天皇の時代につくられた国家的祭祀の遺跡だと考えられています。遺跡を目にすると飛鳥時代の人になった思いがします。

 

斉明天皇の時代の国家的祭祀の遺跡と考えられている酒船石遺跡

 

 

歴史のなかの飛鳥寺

飛鳥寺の瓦

 飛鳥寺の造営には、百済の国の技術者が活躍しました。「日本書紀」の崇峻天皇元(588)年には、寺工・鑪盤(ろばん)博士・瓦博士・画工が渡来したことが記されています。当時は板ぶきの建物が主で、瓦ぶきは最先端技術だったのです。

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(写真枚数:4枚)

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