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母と2人駅へ…でも出征した長兄は帰らなかった 帰還兵を出迎える「のぼり旗」橿原で見つかる

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見つかった「迎軍人大字十市」と書かれたのぼり旗と国旗=橿原市十市町

橿原の辰巳さん、悲しい記憶今も胸に

 

 奈良県橿原市十市町で今年3月、太平洋戦争の戦地からの帰還兵を迎える際に掲げられたのぼり旗が見つかった。自らの長兄は出征したまま帰って来なかった町自治会長の辰巳誠治さん(83)は、よみがえる当時の記憶を胸に「この先長く保存したい」と語る。

 

 辰巳さんが当時のことで覚えているのは空襲、防空壕(ごう)、託児所、麦飯。そして出征兵士たちを送った場面だ。十市御縣坐(みあがたにいます)神社に集まった住民たちは手をたたき、近鉄の新ノ口駅まで歩いて見送った。

 

 出征者たちが境内のムクノキに抱き付いていたのも強く印象に残る。後年、ご神木の力(精)、ご加護をいただいて戦地に赴いたのだと母から聞かされた。その大木は、辰巳さんが高校生ぐらいのときに台風で倒れた。

 

 辰巳さんの兄3人も出征した。戦後の1947(昭和22)年、2人の兄が家に帰ってきた時は家族皆で喜んだ。ただ長兄は帰って来ない。母はラジオ放送にくぎ付けとなり、毎日「陰膳(かげぜん)」をして無事を祈っていた。

 

 49~50年(同24~25年)ごろ、未帰還者を乗せた船が舞鶴(京都府)に到着すると連絡が入った。翌日、母と国鉄畝傍駅(橿原市)まで長兄を迎えに行く。のぼり旗を持つ村の役員や、近所の人は「今日は帰って来るよ」「楽しみやなあ」と声を掛けてくれた。駅には近隣の町村からも、のぼり旗を手に人々が集まっていた。

 

 駅に到着した列車に長兄の姿はなかった。再会に沸く人の輪がある中、「母と二人で悲しく帰った記憶が今も鮮明に残っている」と辰巳さんは語る。その後も3回ほど駅に迎えに行ったが、長兄は帰って来なかった。

 

 53(同28)年、村長から戦死の公報を受けるようにと告げられた。村の未帰還者は長兄を含め2人だった。母は戦死を認めなかった。

 

 10年後の63(同38)年、家族皆で母を説得。公報を受けることになり、その年の3月20日に葬儀を営んだ。その間、母は神社を参拝して百度石に願掛けをしていた。95年に母は他界した。

 

 葬儀から59年がたった今年3月20日。神社の倉庫から畳2畳分の大きさの国旗と、のぼり旗が見つかった。のぼり旗には「耳成村 迎軍人大字十市」の文字。帰還者を出迎えた際に掲げられたものだった。長兄の葬儀日と同じ日に発見されたことに、辰巳さんは運命を感じたという。

 

 「兄はどこで死んだのか分からない。死んでいるのか、生きているのかも分からない」と静かに語る。そして改めて「誰があんな戦争を始めたのか」との思いを募らせる。

 

 ウクライナではロシアによる軍事侵攻が起き、世界情勢は不穏だ。国内でも近年、憲法九条改正や敵基地攻撃能力の議論があり、強い危機感を抱く。「どんな理屈があろうと二度と戦争してはあかん」。誰にも母のような思いをしてほしくない。未来を担う若い人たちにも伝えたい。目を細めてのぼり旗を見つめ、もう一度繰り返した。「二度と戦争してはあかん」

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