考古学

重臣の屋敷跡? - 礎石建物跡1棟など 豊臣政権期のもので初/郡山城三の丸跡

郡山城三の丸跡で見つかった豊臣政権期の武家屋敷跡=8日、大和郡山市北郡山町の市役所 拡大

 大和郡山市は8日、同市北郡山町の郡山城三の丸跡で、重臣の武家屋敷とみられる16世紀末から17世紀初の礎石建物跡が見つかったと発表した。同跡で豊臣政権期の遺構が見つかるのは初めて。江戸時代の絵図から重臣の屋敷地とみられていたが、豊臣政権期から同様の機能があった可能性が高まった。郡山城の築城過程を知る貴重な成果。

 市役所新庁舎建設工事に伴い、2月25日から現庁舎北側駐車場の約250平方メートルを調査。柱の下に石を置いた礎石建物跡1棟などが見つかった。

 建物の規模は東西約2・5メートル以上、南北約7メートル。礎石は大きさが約20~45センチで、石臼や五輪塔から転用した石もあった。礎石列は東西4列あり、西端の1列は石が小ぶりで間隔が狭いため、建物の周囲に縁側があった可能性がある。

 出土土器の年代から16世紀末から17世紀初ごろの建物と推定。建物の構造などから、家老クラスの重臣の屋敷と考えられるという。

 このほか、江戸時代中期から後期の溝や貯水池と考えられる土坑(こう)などを検出。刀の装具や分銅などの金属製品も出土した。

 郡山城は天正8(1580)年、大和の戦国大名・筒井順慶が入城。豊臣政権期に豊臣秀吉の弟で大和100万石を治めた秀長や五奉行の一人、増田(ました)長盛が本格的な築城を行った。

 遺構が見つかった三の丸は江戸時代初期の正保元年(1644)年に作成された「和州郡山城絵図城」で「侍町」と記されたほか、同時代後期の絵図でも「五軒屋敷」などと記述。しかし、これまでは遺構が少なく、成立の時期や実態などは不明な点が多かった。

 調査を担当した同市都市計画課文化財保存活用係の青山加奈子主事補は「武家屋敷があったと思われる時代より古くなる可能性がある遺構が見つかり、その性格や機能を考えることが重要」としている。

 現地説明会は11日午前10時から午後3時。説明は随時。雨天中止。駐車場はない。

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