国原譜
通勤至便は今も昔も高級住宅地の条件らし…
通勤至便は今も昔も高級住宅地の条件らしい。奈良市立一条高校の敷地内で、一辺が250メートルもある奈良時代の宅地跡が見つかった。現在なら2万坪近い大邸宅だ。
天皇の住まいや中央官庁街のある平城宮まで歩けば10分ほどだろうか。平城京でも藤原京でも、中枢部近くに貴族の邸宅が配置され、下級官人らは結構な時間をかけて通ったらしい。
今回の宅地が広大と分かったのは、京内を区切る道路があるべき所に塀などが建てられていたからだ。邸宅の主は不明だが、左大臣の長屋王が同規模の宅地に住んだことを考えると、続日本紀に登場する高級貴族の一人かと想像が膨らむ。
もっとも、恵美押勝の名で知られる藤原仲麻呂はその倍、8町分の敷地を占めたというから上には上がある。建物も掘っ立て柱ではなく礎石立ちだった。
庶民はというと、16分の1町や32分の1町の宅地に住み、敷地内では野菜なども育てていたようだ。
都はやがて長岡京、平安京へ。大邸宅も庶民の家も、多くは水田になったとされる。人々が泣き笑った暮らしは、今も私たちの足元に眠っている。(増)
天皇の住まいや中央官庁街のある平城宮まで歩けば10分ほどだろうか。平城京でも藤原京でも、中枢部近くに貴族の邸宅が配置され、下級官人らは結構な時間をかけて通ったらしい。
今回の宅地が広大と分かったのは、京内を区切る道路があるべき所に塀などが建てられていたからだ。邸宅の主は不明だが、左大臣の長屋王が同規模の宅地に住んだことを考えると、続日本紀に登場する高級貴族の一人かと想像が膨らむ。
もっとも、恵美押勝の名で知られる藤原仲麻呂はその倍、8町分の敷地を占めたというから上には上がある。建物も掘っ立て柱ではなく礎石立ちだった。
庶民はというと、16分の1町や32分の1町の宅地に住み、敷地内では野菜なども育てていたようだ。
都はやがて長岡京、平安京へ。大邸宅も庶民の家も、多くは水田になったとされる。人々が泣き笑った暮らしは、今も私たちの足元に眠っている。(増)