考古学

羅城と一体で再整備? - 「十条」条間の道路遺構 北側の溝から土器や土馬も/大和郡山

奈良時代中ごろに拡幅されていたことが分かった「十条」条間北小路の遺構。後方の高架橋付近が羅城推定地=13日、大和郡山市野垣内町 拡大

 大和郡山市教育委員会は13日、同市野垣内町の平城京南方遺跡で、平城京「十条」条間北小路にあたる奈良時代の道路遺構が見つかったと発表した。朱雀大路西側の右京域での「十条」条坊道路の確認は2例目。道路は同時代中ごろに路面の拡幅を行っており、平城京の城壁「羅城(らじょう)」などと一体的に再整備された可能性があるという。

 市教委によると、遺跡の範囲確認を目的に2月中旬から約109平方メートルを調査。道路の北側溝2本と南側溝とみられる奈良時代の東西溝3本が見つかった。

 昨年、右京域で初めて見つかった「十条」条間路から北約113メートルの条間北小路の想定地と一致。「十条」の右京域でも平城京の規格に合った条坊(碁盤目状の区画)があったことが再確認された。

 北側溝は南側の溝(幅約1・8メートル、深さ約36センチ)を奈良時代中ごろに人為的に埋めて北側の溝(幅約2・6メートル、深さ約45センチ)に付け替え、路面幅を約6メートルから約7・6メートルに拡幅。南側の溝にはこれまでの「十条」の道路遺構と同様に遺物がほとんどなかったが、北側の溝から土器や祭祀(さいし)に使われた土馬などが出土し、活発な土地利用がうかがえる。

 一方、南側溝(幅約3・6メートル、深さ約75センチ)は路面拡幅と同時期に半分ほど埋められた。南北両側溝とも奈良時代後半に自然廃絶したとみられる。

 これまでの「十条」の条坊遺構は奈良時代中ごろに埋められて耕地化されていたが、同時代中ごろ以降も存続する箇所があることが判明。今回の遺構は羅城(らじょう)や羅城門に近く、羅城の建設時期も同時代中ごろと考えられることから、これらの施設と一体的に再整備された可能性があるという。

 続日本紀には、平城京の正面玄関にあたる羅城門での雨乞いの祭祀や外国使節の送迎などが記されている。

 平城京の南端は九条とするのが通説だったが、平成17~19年に市教委などの調査で「十条」とみられる区画跡を発見。昨年、右京域でも条坊が見つかり、「十条」の性格や京域の範囲などを巡って専門家間で議論になっている。

 調査を担当した同市教委の十文字健主任は「都の造営は当時の政治システムと関係が深く、造営過程を知ることは古代社会を考える上で重要」としている。

 現地説明会は16日午前10時から午後3時。説明は随時。小雨決行荒天中止。現場に駐車場はない。問い合わせは大和郡山市教委生涯学習課文化財係、電話0743(53)1151(内線733)。

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