考古学

柱穴列は大型建物 - 下層に「泊瀬朝倉宮」か

掘っ立て柱建物と判明した柱穴列(手前)。調査区全面の下層には竪穴建物が見つかった=桜井市脇本の脇本遺跡(県立橿原考古学研究所提供) 拡大

 天武天皇の娘で伊勢神宮に仕えた大来皇女(おおくのひめみこ)が心身を清めた「泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)」があったとされる桜井市脇本の脇本遺跡で、前回調査で見つかった正方位に並ぶ柱穴が、東西棟の掘っ立て建物だったことが分かった。県立橿原考古学研究所が19日、発表した。

 前回調査では「コ」の字形に並んだ柱穴列を検出。「磯城・磐余の諸宮調査会」の調査(昭和59年~平成2年)で検出した7世紀後半の柱穴列(柵列)の延長線上にあることから、東西105メートルの二重柵と掘っ立て柱建物の二つの可能性が想定された。

 今回は前回の柱列の続きを確認した。その結果、建物の南西隅にあたる柱穴4基を検出。前回と合わせて東西8間(18・8メートル)、南北3間(8・0メートル)の掘っ立て柱建物になることが判明した。

 柱穴は長辺1・3~1・5メートルの隅丸方形。柱間は2・10~2・75メートルで、柱は直径36~50センチ程度が推定される。

 7世紀後半の柱列は泊瀬斎宮との関連性が指摘されていて、同研究所は「掘っ立て柱建物も泊瀬斎宮の一部である可能性がある」としている。

 その下層からは調査区全面にわたり、3、4世紀~6世紀の竪穴建物17棟を検出した。時期の特定できるものは、3、4世紀(4棟)▽5世紀前半(4棟)▽5世紀後半(4棟)▽6世紀(3棟)―に分かれる。

 脇本遺跡では5世紀後半、6世紀後半、7世紀後半の3時期に、大型掘っ立て柱建物が短期間存続し、その間を埋めるように竪穴建物が建てられたとみられていた。

 特に5世紀後半の大型掘っ立て柱建物は雄略天皇の「泊瀬朝倉宮」に関連するとされ、4~5世紀に存続した集落を5世紀後半の造成で削平し、宮をつくったという見解があった。井上主税主任研究員は「集落は断続するのではなく継続していて、集落の構成について再考が求められる」と話している。

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