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もくじ

奈良のふるさとのはなし

三つの問題
鹿殺し裁判


のせがわのむかしばなし

蕎麦の軸の赤いわけ
天狗の扇
蟹の報恵
ふくろうの染物屋と烏
(野迫川村要覧より)

悲運の皇子 自天皇

-その1-
-その2-
(川上村「後南朝と川上村」より)


十津川妖怪譚

だる:ダル
天狗:テング
ごうら:ゴウラ
山女郎:ヤマジョウロ
 山姥:ヤマンバ

一本だたら:イッポンダタラ
山小屋の怪異:ヤマゴヤノカイイ

「神饌」神々との宴

1.往 馬 大 社
2.門 僕 神 社
3.談 山 神 社
4.八 幡 神 社
5.倭 文 神 社
6.高 山 八 幡 宮


その他のおはなし

四社神社秋祭り
安堵町・なもで踊り

日本の造林王

・土倉庄三郎


東吉野が育んだ秀句紀行

・「原 石鼎」

奈良のおはなし
悲運の皇子 自天皇
-その2-

南朝側の反攻

自天皇 こうした北朝側に対し、後亀山天皇の皇子・小倉宮は京都をはなれ、奥吉野・川上郷に住いを定められました。そして、南朝回復の願いは、その子天基親王と円満院宮らに引きつがれ、ついに京都へ攻め入り大きな犠牲をはらいながらも神璽を取りもどしました。


 一方、さきに川上郷にうつっていた万寿寺宮(尊義王)は円満院宮から神璽をうけ、自天皇(尊秀王)と忠義王(河野宮)の二皇子をともない三之公に御所をかまえられました。

自天皇暗殺さる

 その後、父・尊義王がなくなり、自天皇は上北山村に、弟の忠義王は神之谷にわかれ住み、南朝方忠臣や郷民に守られながら再起の機会をうかがっていました。ところが長禄元年12月2日(1457年)の夜、赤松家一家の謀略にあい、両方の御所がおそわれ、自天皇はあえない最後をとげられました。この時、まさに18歳の若さでありました。郷民は、深い悲しみにおおわれながらも王の御首をとりもどし、金剛寺の境域にほうむりました。

 一方弟宮・忠義王は高原までにげのび、ここで病気でなくなられたといい伝えられています。今も郷民の追慕かわらず、毎年2月5日朝拝式が行われ、500有余年の昔をしのんでいます。

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川上村「後南朝と川上村」より


>>-その1-



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