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万葉の景色

穂積親王宮

川が結んだ禁断の恋

橿原市別所町

▲但馬皇子の渡った万葉集に詠まれた「川」はどこだろう。
1300百年前の「禁断の恋」にあらためてスポットが当たりそうだ
橿原市別所町(後方が香久山)

 「穂積(ほづみ)親王宮」と記された木簡がこのほど、藤原京跡の官道「中ツ道」(橿原市出合町)から出土した(7月18日付本紙)。天武天皇の皇子、穂積皇子の邸宅が近くにあった可能性が強まり、「万葉集」の記載を裏付ける結果になった。もちろん、ただちに場所の断定はできないだろうが、現代人を今なお魅了する「万葉ロマン」の世界がまた一つ、身近になった。発掘現場とその周辺を歩いた。

 見つかった「穂積…」の木簡は1点で、長さ約26センチ。文字の配列から宮に仕える6人の官人の名前が書かれていた、と推定されている。平城遷都直前の和銅2(709)年と読める木簡も。さて、穂積皇子(~715年)は705年、内閣総理大臣にあたる政界トップの「知太政官事」に昇る。その10年ほど前、異母兄で持統朝の太政大臣を務めた高市皇子の妻、但馬皇女と恋仲になった、という。今風にいえば2人の恋は人目を避けるゴシップ、スキャンダルだ。

 にもかかわらず、熱烈な恋歌を残した2人。

 『 人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る 』  但馬皇女(巻2-116)

 但馬皇女が高市皇子の宮に住んでいた時に、ひそかに穂積皇子に会ったことが世間に知られ作った歌とあり、一夜を過ごした穂積親王宮から川を渡り高市皇子宮へ朝帰りした。川を隔てて至近距離にあったことがうかがえる。高市皇子の宮が香具山宮とも呼ばれ、香久山周辺に立地していたことも知られている。但馬皇女が渡った「川」とは。香具山と藤原宮跡、さらに木簡が見つかった場所を結ぶかいわい、今も田が点在し農業用の水路が走る。

 情熱的な但馬皇女に対し、穂積皇子の立場は微妙だったようだ。そんな穂積皇子も、但馬皇女の死後、思いを前面に出した歌を詠んだ。

 『 降る雪は あはにな降りそ 吉隠の 猪養の岡の 寒からまくに 』 (巻2-203)
=平成14年6月16日付本紙「万葉の景色 吉隠」=

藤原宮跡

▲「穂積親王宮」と記された木簡などが見つかった藤原宮跡。
香具山に向かい中ツ道が延びる発掘現場(橿原市出合町で6月16日撮影)


写真と文 牡丹 賢治

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