このページでは、Javascriptを使用しています
奈良新聞WEB トップへ戻る
 
←次へ 前へ→
万葉の景色

大仏開眼

世紀の祝典に謎の沈黙

▲その大きさと同じくらい人々の信仰も厚く「奈良の大仏さん」と
親しまれている東大寺盧舎那仏。
写真下、台座の蓮弁は造営当初の姿をとどめ、
丸顔のふくよかな顔の大仏さまが刻まれている
(奈良市雑司町)

 天平勝宝4(752)年の開眼以来、脈々と時を刻み、人々の心を癒やし続ける東大寺の大仏さま。それから1250年。節目を迎えた今年、「慶讃大法要」が15日からにぎにぎしく営まれる。

 さて、聖武天皇の発願で、国家の英知を結集した大仏造営の大プロジェクト。その総仕上げとなった開眼会当日、大仏さまは今より一回り大きく、全身に鍍金(ときん)が施され目映く光を放っていたことだろう。

 花々に彩られ、幡(ばん)がひるがえる会場には聖武太上天皇、光明皇太后をはじめ文武百官が控え、さらに1万を超える僧侶が集まったと記録にある。その中には大伴家持ら当時、名をはせた歌人が参列していたことも容易に想像できる。

 が、彼らはこの世紀の祝典を一首の歌にも残していない。「万葉集」をひもとくときの謎の一つとして語り継がれている。そんな中、天平21(749)年、聖武天皇が陸奥の国で黄金が出土したことを喜ぶ詔書を、完成間近な大仏に奏上したとき、遠く越中にいた家持は感激し、詔書をことほぐ長歌(巻18-4094)と反歌3首を詠んでいる。


『 天皇(すめらぎ)の 御代栄えむと 東なる 陸奥(みちのく)山に 黄金(こがね)花咲く 』
(巻18-4097)


 反歌の一つ。離れた地から平城京の繁栄を祝すものだが、なぜ、盛儀の歌を詠まなかったのだろうか。平城京の政治がすべて藤原サイドで施行されたことへの不満が、沈黙の抵抗となった、などと推測されているが、それだけだろうか。謎は深まる。

 天下の安泰などを願い造営された大仏さま。その後も東大寺は隆盛を極めたが、今日までの道のりは決して安泰なものではなかった。兵火による二度の炎上が代表的な例だが、その都度、不死鳥のようによみがえった。その大きさと同じくらい人々の信仰が厚く、平成の世にあっても人の心を癒やし、大らかに歴史を見つめ、世界を包み込んでいるようだ。

 今となっては、家持の心内を知るのは造営当初の姿をとどめる天平時代の蓮弁に刻まれた丸いふくよかな顔の大仏さまだけかも。


▲正月とお盆、普段は閉まっている観相窓が開かれ、
大仏さまの顔が外から拝める


写真と文 牡丹 賢治

ページ上部へ移動

グラフ:目次ページに戻る

奈良新聞WEBトップに戻る


 

会社概要採用情報新聞購読出版情報個人情報保護特定商取引法に基づく表示サイトマップ