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金曜時評

平城宮跡を考える - 編集委員 増山 和樹

 国営公園となった奈良市の平城宮跡で、中心部の整備が進んでいる。慣れ親しんだ風景の変貌に、驚く人もいるだろう。平城宮跡は奈良時代の70年あまりにわたって国の中枢だった場所であり、特別史跡に指定されている。身命を賭して保存運動に取り組んだ先人のためにも、安易な整備であってはならない。

 建物の復元は厳密な考証のもとに行わているが、約120ヘクタールの広大なエリアにどのような具体像が描かれているのか、事業概要からは見えにくい。第一次大極殿周辺のように大きく変わる部分、変わらない部分の線引きを明確にし、事業主体の国土交通省が県民に示す必要がある。“歴史テーマパーク″でないのはもちろんであり、人工的過ぎる整備には慎重であってほしいと願う。

 田畑に変じていた平城宮の顕彰を志し、私財を投じて保存運動に取り組んだのが、幕末の奈良に生まれた棚田嘉十郎だった。大正2年に設立した奈良大極殿址(し)保存会は地元の協力を得て土地の確保を進め、棚田の死の翌年、宮跡は史跡に指定された。

 その偉業にあやかる現代人は、若草山や生駒山を臨む緑の空間に安らぎを感じてきた。かつては国の威信を示す舞台であり、今私たちが見る風景は、戦後の保存整備によってつくり出されたものである。昭和53年に文化庁が策定した「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想」は今も整備の指標だが、今後は国交省管轄の都市公園として新たな道を歩むことになる。予算規模は桁違いで、整備の速度も当然速い。私たちは100年以上前に点火された保存活動の大きな節目に立ち会っている。

 平城宮跡をめぐる問題は「保存と活用」に集約される。棚田が目指したのは「平城神宮」の創建だった。思いを達することはできなかったが、無二の宮地を残すことにつながった。先日、大極殿周辺を歩いてみた。「土系舗装」に反対の声が出ている第一次朝堂院広場は、造成が終わって運動場のような空間に変わっていた。奈良時代の国家儀式では、大極殿に出御した天皇に向かって官人が整列したという。古代空間の再現とはいえ、無機質な感は否めなかった。完成後はイベントなどに使われる。

 凍結的保存から活用への流れは「日本の原風景」といわれる明日香村でも進んでいる。地下の遺構や遺物にダメージを与えない限り、活用にはさまざまな形があってよい。問われるのは中身である。何のための整備か、誰のために整備するのか、その軸線が明確でぶれないことが重要だ。平城宮跡と生活をともにしてきた地元の思いも忘れてはならない視点だろう。

 完成時には美しい公園でも、整備の過程は工事現場の様相となる。事業の主体が国交省に移ったことで、「保存と活用」が「保存か活用」のように受け止められていないか。誤解ならば解かねばならない。より丁寧な情報発信が求められている。

 

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