斜面中腹巡る塀の跡 - 甘樫丘東麓遺跡
2010年3月19日 奈良新聞
![]() 斜面の中腹で見つかった塀の跡。女性3人の右手が親柱の穴=18日、明日香村川原 |
7世紀前半の政権を掌握した蘇我蝦夷・入鹿父子の邸宅があったとされる明日香村川原の甘樫丘東麓遺跡で、斜面中腹に塀を巡らせた柱穴が見つかり、18日、奈良文化財研究所が発表した。丘の上にも遺構が埋まっている可能性が高まった。 約6000平方メートルの谷地をつくる南面斜面の中腹で、幅3メートルの平坦地に2本分の柱穴列が見つかった。年代は7世紀。 がけ寄りの1列は長さ10メートル分を検出した。一辺70センチの方形柱穴が3基あり、柱の直径は約30センチと推定される。 柱間をつなぐ浅い溝や直径約20センチの小さな柱穴(10基)を伴っている。柱間を土で塗りこめたり、横板を渡す構造が想像できる。 斜面すそから塀跡までの標高差は約10メートル。塀跡の北側は再び上り斜面になる。調査を担当した番光研究員は「さらに上に施設が存在したことを示唆する」と位置づけた。 また、斜面のすそでは、水を流す溝を素掘りしたり、20~30センチの石を並べたりしていた。石敷は、水を受けて軟弱になった土を補強したと考えられる。 「日本書紀」では、蝦夷の家は「上の宮門(みかど)」、入鹿の家は「谷の宮門」と呼ばれていたとし、「家の外に城柵(きかき)」と描写されている。 同遺跡では平成6年に7世紀中頃の焼けた土や材木が見つかり、乙巳(いっし)の変(645年)後に自宅で自害した蝦夷との関連性が注目された。 その後、谷地で発掘調査を行い、7世紀の石垣や掘立柱建物跡などを発見したが、中枢建物跡はまだ見つかっていない。 現地説明会は20日午前11時~午後3時。少雨決行。現地は「飛鳥」バス停から南へ徒歩約10分。 |
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