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【ことなら'23春】奈良と徳川家康 伝承記録で探る - 大坂冬の陣で敗走 九死に一生を得る

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 江戸幕府を開き、引退後も実権を握った徳川家康(1542〜1616年)。今年は家康が主役となるNHK大河ドラマ「どうする家康」が放送されている。奈良と家康の意外なつながりとは。伝承や記録をのぞいてみた。

 

 

幸村に敗れ逃げ込む?

■山の寺念仏寺(奈良市漢国町)

 徳川家康が大坂冬の陣(1614年)の際、木津(木津川市)で真田幸村に敗れて奈良に逃げ、桶屋にあったひつぎに隠れて九死に一生を得た―。近鉄奈良駅の西側、奈良市漢国町周辺にはそんな言い伝えが残る。

 

 同町にある山の寺念仏寺は江戸時代に入った1622(元和8)年の開創。その大檀那となったのは松平定勝。家康の異父弟で、山城国伏見藩(京都市伏見区)などの藩主を歴任、2代将軍徳川秀忠の相談役も務めた。寺には定勝の墓と伝わる供養碑がある。

 

山の寺念仏寺の境内に立つ松平定勝の墓と伝わる供養碑

 

山の寺念仏寺の山門にある徳川家の家紋「葵紋」

 

 奈良のこの地になぜ寺が開創されたのかは不明だ。定勝が大檀那となったことも「家康と桶屋」の伝承に関連があるのか。寺の山門には徳川家の家紋「葵紋」がある。家康との関係に想像が膨らむ。

 

 

よろいを奉納、かぶとは・・・

■漢国神社(奈良市漢国町)

 奈良市漢国町の漢国神社には家康が奉納したよろい「茶糸威胴丸(ちゃいとおどしどうまる)具足」が伝わる。

 

 当時の奈良は甲冑(かっちゅう)の一大生産地。家康お抱えの具足師、岩井与左衛門の屋敷が神社近くに存在した。

 

 神社所蔵の文書「漢国日記」と「御鎧之(おんよろいの)由来」によると、大坂冬の陣に際し、家康は二条城を出発し木津を経て奈良に入った。翌日、与左衛門の屋敷に寄ったのち、神社を参拝して具足を奉納した。

 

 奉納されたこの具足も与左衛門の作とされる。かぶともあったが、神前に供えた際に落ちてしまい奉納されなかったという。

 

 境内にはよろいを収納するために建てられた蔵が現存する。建物正面の妻には葵紋。蔵の正面脇には葵神社も鎮座する。家康ゆかりのよろいは現在、奈良国立博物館に寄託され、境内には複製が収められている。

 

家康が漢国神社に奉納したと伝わる「茶糸威胴丸具足」の複製

 

 

東照宮御廟屋に位牌

■西照寺(奈良市今辻子町)

 奈良市今辻子町にある西照寺の院号は「家康院」。家康の位牌を安置する。かつては家康を祭る「東照宮御廟屋(みたまや)」があり、厨子の中に位牌を納めていた。幕末の奈良奉行、川路聖謨(としあきら)をはじめ、幕府から任じられた歴代の奈良奉行は真っ先に同寺を参詣したという。

 

西照寺の境内にひっそりとたたずむ家康の墓碑

 

 境内には家康の墓碑も存在。建立は元治年間(1864〜65年)とされ、明治の廃仏毀釈(きしゃく)では徳川家との関係の発覚を恐れたのだろうか、墓石は寺内の地中に埋められたという。昭和30年代の初めごろに掘り起こされ、現在地に移された。

 

 家康が祭られた理由は伝わっていない。逃げてきた家康をかくまったと伝わる桶屋の伝承が残る一帯は、家康と何らかの関係があったことは間違いないと思われるが、謎は多いままだ。

 

 

家康の竹馬の友が開山

■崇徳寺(奈良市大豆山町)

 近鉄奈良駅の北側、奈良市大豆山町にある崇徳(そうとく)寺の開山は縁誉休道和尚(えんよきゅうどうかしょう)。三河(愛知県)の出身で、家康と竹馬の友だったとも、家康が幼い頃の習字の師だったとも伝わる。

 

 関ケ原の戦い(1600年)を終えた家康が02(慶長7)年、奈良を訪れた際、この地に庵(いおり)を建てて念仏修行をしていた休道和尚と再会。互いに喜び、家康は寺院を建てて知行5千石を与えようとしたが、休道和尚は固辞したという。

 

家康がよろいを掛けたと伝わる崇徳寺の松。現在の松は数代目になる

 

 03(同8)年、家康の命で重臣大久保長安が大檀那となり本堂が建立され、さらに付近の山林と知行50石が与えられた。寺内には初代家康から13代家定までの江戸幕府歴代将軍の位牌も安置する。

 

 境内には家康が立ち寄った際によろいを掛けたと伝わる松も。現在の松は数代目で、隣には「家康公よろひかけ松」の碑が建立されている。

 

 

家康奉納の石燈籠か

■春日大社(奈良市春日野町)

 「家康と桶屋」の伝承を「家康の強運」として収録する高田十郎編『大和の伝説』(1933年)には、次のような続きがある。

 

 桶の中から出た家康は再び真田幸村に追われ、春日大社の本殿の中に隠れた。幸村は境内の祠(ほこら)を三つまで槍で突き、四つ目を突こうとしたところ、見ると本殿だったので遠慮して立ち去った。今度も家康は九死に一生を得ることができた―。

 

 そんな伝説もあったという奈良市春日野町の春日大社には、家康ゆかりと考えられる石灯籠がある。徳川家の家紋「葵紋」をあしらった飾り金具が目を引く、豪華なつくりだ。2016年に金色に輝く当時の姿に復元された。

 

実際には家康が春日大社に奉納したと考えられている徳川頼宣の石灯籠

 

春日大社には家康の繁栄を願い藤堂高虎が寄進したつり灯籠もある

 

 石燈籠に刻まれた「施主長福」は、幼名を「長福丸」と名乗った徳川頼宣(よりのぶ)のこと。頼宣は家康の十男で、家康に愛されて紀州徳川家の初代藩主となった。ただ銘文の「慶長九(1604)年」は頼宣3歳の年。実際には家康と母お万の方が寄進したと考えられている。

 

 

験を担ぎ通らなかった?

■亀の瀬(王寺町、大阪府柏原市)

 江戸幕府が編さんした歴史書「徳川実記」によると、大坂冬の陣で木津から奈良に入った家康。その後は法隆寺(斑鳩町)の阿弥陀院に一泊。同寺で戦勝祈願をしたとされ、翌日には住吉大社(大阪市住吉区)に着陣している。法隆寺から住吉大社まではどの経路で進んだのだろうか。

 

 江戸時代に大和川の舟運、魚梁船(やなぶね)の経営権を掌握した、三郷町の安村喜右衛門が残した古文書によると、家康は法隆寺から亀の瀬(龍田古道)を越えようとした。ところが亀岩に首がないため出陣に際して不吉と思い、他に道があれば案内するようにと安村喜右衛門に命じた。喜右衛門は川の対岸(南側)に山道を切り開き、家康を案内したとする。

 

 亀岩は奈良―大阪府境の渓谷地帯「亀の瀬」の名前の由来とされる岩だ。安村家の文書は特別な家筋と魚梁船の経営権所有を主張するための潤色という見方もあるが、関係性に興味が尽きない。

 

安村家の古文書によると徳川家康が通るのを避けたという亀の瀬。写真中央下の岩がその要因とされる亀岩

 

 

VRで!奈良のええとこ疑似体験

VRラインアップのひとつ「家康が奉納した鎧(よろい)」

 

◆NHK奈良放送局

 NHK奈良放送局では、普段はなかなか行けない、入れない場所を360度カメラで撮影し、専用ゴーグルで体感できるVR(バーチャル・リアリティー〈仮想現実〉)映像にして公開しています。画面で“見る”だけじゃない、その場に“いる”体験を、ぜひお楽しみください。ラインアップは「興福寺五重塔」「家康が奉納した鎧(よろい)」「難攻不落の姫路城」などです。毎日午前10時〜正午、午後2〜4時(土日祝は5時まで)。

 

※この記事は奈良新聞デジタルの歴史文化ジャンルでお読みいただけます/月額550円(税込み、初月無料)

 

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