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奈良と徳川家康【番外編】 徳川家康はどんな人? - 奈良大学教授・外岡慎一郎さんインタビュー

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 NHK大河ドラマ「どうする家康」で注目される徳川家康(1542〜1616年)。奈良新聞デジタルでは、奈良に関わる家康ゆかりの伝承や歴史的見解を追う「奈良と徳川家康」を連載中ですが、今回は番外編として家康の人物像に迫ります。外岡慎一郎・奈良大学教授(日本中世史)に話を聞きました。

 

 =連載「奈良と徳川家康【6】」は次週公開します=

 

 (聞き手・竹内稔人)

 

 ―徳川家康の性格は「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」で例えられます。江戸幕府を開き天下人となった家康はどんな人物だったのでしょうか。

 

 家康は慎重と評される部分もありますが、裏を返せば決断できずに迷っていたともいえます。それで家臣たちからせっつかれて「どうする」と―。実はそういう人生だったのではないでしょうか。

 

 勝手に相手が転んでくれるという幸運も一定量必要です。権力の絶頂期にいた織田信長は殺されてしまい、豊臣秀吉には子どもができませんでした。家康は相当幸運だったといえます。

 

 (不運だった)信長や秀吉の例があった分、家康は学んだところもあったのでしょう。たくさん子どもをつくっていますし、身辺警護も慎重にやっていたと思います。自ら薬を調合して服用していたともいわれ、長寿(75歳)を誇りました。

 

 ―家康の出身地、三河(愛知県東半部)はどのような土地だったのですか。

 

 三河は地政学的に難しい土地でした。領地は大きくなく、織田や今川、武田、北条といった各勢力の中間に位置します。家康は武田と同盟してみたり、北条と同盟してみたり、それに加えて織田との関係を保ちながらと、バランス外交が求められました。

 

 日本がいま直面している国際状況を考えてみると、アメリカとは同盟関係にあるが、対岸諸国とは決して仲が良いわけではない。当時の三河と似た状況で、「どうする日本」みたいなところがあります。江戸時代200数十年の平和を構築した家康に、現在の日本の希望が見えてくればと考えさせられます。

 

 ―家康を支えた家臣たちはどんな存在でしたか。

 

 三河武士は自我が強く、鳥居、本多、酒井ら譜代の家臣たちは代々徳川に仕えてきました。それぞれ家族や百姓がいて生き残らないといけない。殿様が簡単に間違えて全滅するわけにはいかない。場合によっては殿様を殺してでも自分は生き残る。それくらいの気持ちは持っていました。みな必死だったと思います。それだけに家康は単に自分だけでは決められない状況にありました。

 

 ただ家臣に恵まれた点は、信長や秀吉とは違うところです。父以来の家臣を近づけなかった信長は、自分がリクルートした連中でそばを固めました。農民出身の秀吉は先祖代々仕える家来がおらず、自分が育てた連中で固めます。

 

 それらからすると家康は違います。新しく登用した家臣はゼロではないが、やはり本多とか鳥居とか、もともとの三河武士が中心になりました。

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