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【ことなら'24春】藤原道長の奈良・金峯山詣で そのルートをたどる - 源氏物語を巡る旅

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金峯山(山上ケ岳)に参詣して万灯会を営む

 2005年、天川村の山上ケ岳(1719㍍)山頂直下に立つ大峯山寺本堂近くで、土製の皿が大量に出土した。直径10~15㌢。煤(すす)が付着しており、灯明皿として使用されたことは明らかだった。注目されたのは総量で1㌧ほどにもなる数の多さと土製皿の年代。藤原道長の日記「御堂関白記」には、1007(寛弘4)年、道長が金峯山(山上ケ岳)に参詣して万灯会を営んだことが記されている。土製皿の年代はこの記述を裏付けた。


 道長は当時42歳。左大臣正二位に上り詰めていた。金峯山では自らの写経を埋納し、「御明百万燈」などをささげたという。出土した大量の土製皿は法要後に廃棄されたものと推定された。金銅製の経筒は本堂の再建工事に伴って江戸時代(元禄期)に出土したと伝えられ、国宝に指定されている。


 道長一行はどのようなルートで金峯山を目指したのだろう。「御堂関白記」からその旅をたどることができる。

 

山上ケ岳の頂上直下にある大峯山寺本堂

 

 

平安京を出発、南都・大安寺へ

 出発は8月2日の午前2時。平安京の朱雀大路を南に進んで羅城門を出ると、川を舟で下って石清水八幡宮に参拝、奈良に入ったのは3日とみられる。その日の宿は藤原氏ゆかりの興福寺ではなく大安寺。南都七大寺の一つで東西両塔が並び立つ大寺院だった。

 

 道長は用意された華美な宿舎が金峯山詣でにふさわしくないとして、境内の別の宿舎に泊まったという。道長の宿泊からちょうど10年後、大安寺の伽藍(がらん)は落雷のため大半が焼失、再建事業が続いた。現在はがん封じのご利益でも有名。2023年には天平仏7体を安置する宝物殿が増改築された。

 

南都七大寺の一つに数えられた大安寺

 

 

奈良盆地を南へ

 翌4日は終日雨に降られたらしく、現在の天理市辺りで宿泊、5日も雨の中行程を進め、橿原市にあった軽寺を宿とした。軽寺は日本書紀にも登場する古代寺院で、出土瓦などから同市大軽町の法輪寺付近に法隆寺式の伽藍があったと考えられている。

 

 

壷阪寺から吉野山へ

 6日はようやく晴れとなり、高取町の壷阪寺に参詣して宿泊。現在も西国三十三所第六番札所として信仰を集め、本尊は十一面千手観音菩薩坐像。眼病平癒の霊験で知られ、人形浄瑠璃「壷坂霊験記」でも有名。境内には高さ20㍍の大観音石像もある。

 

高取山に広大な伽藍が広がる壷阪寺


 翌7日はいったん山を下って麓の観覚寺(現在の子嶋寺)に参詣。平安時代に一条天皇が奉納したとされる子島曼荼羅(国宝)が伝来、道長の参詣もこの曼荼羅に関係するとみられている。その後、吉野山の蔵王堂付近まで一気に進んで宿泊。

 

平安時代の「子島曼荼羅」が伝わった子嶋寺

 

 

吉野山から金峯山へ

 8日は雨のため停滞し、9日からいよいよ登山を開始、山上ケ岳との中間辺りで一泊し、翌10日、目的地の山上に到着した。万灯会が営まれたのは11日。山上には役行者(えんのぎょうじゃ)が蔵王権現を感得したとされる湧出岩や大峯山寺本堂、修験者の行場(裏行場)がある。現在の本堂は江戸時代(元禄期)の再建で国の重要文化財。山上ケ岳は女人禁制。

 

「西の覗(のぞ)き」などの行場続く山上ケ岳

 

【大安寺】奈良市大安寺2の18の1、電話0742(61)6312
【法輪寺(軽寺跡)】橿原市大軽町373
【壷阪寺】高取町壷阪3、電話0744(52)2016
【子嶋寺】高取町観覚寺544、電話0744(52)2074

 

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