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東吉野村だより くつろぎの山里 名店巡り

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味わう くつろぐ 東吉野の名店巡り

 東吉野村は豊かな自然と素朴な山里に育まれた、そうめんなどの逸品、旬の野菜や銘菓が味わえる老舗から最新の買い物スポットまでがそろい、さまざまな食文化が堪能できる。また温泉やキャンプなど大自然に抱かれながら、ゆったりと過ごすには最高の環境が整う。ぜひ訪ねたい名店、立ち寄りどころをご紹介。

 

小さな道の駅・ひよしのさとマルシェ

 東吉野村の食文化にふれるには大字鷲家224の「小さな道の駅・ひよしのさとマルシェ」がお薦めだ。同村の特産品のゆずを使った商品を生産する農産物加工センターに隣接し、ゆず以外にも同村で作られるさまざまな食材を一堂に会して買うことができる。農産物加工センターからは、ゆずポン酢、ゆず大根、ゆずパウンドケーキ、ゆず唐辛子、ゆず胡椒、ゆずドレッシング、ゆずゼリーなどが出荷される。

 

地元農家直送の旬の野菜を紹介する徳谷孝義店長

 

 軽飲食コーナーでは、ゆずソフトクリームも売られている。地元の「たあめん」も食べられる。店内のヤマザキショップでは焼き立てのパンを手にすることができる。マルシェでは、柚子、大根、ずいき、さつまいも、かぼちゃ、すいか、など地元農家直送の旬の野菜がそろう。特産品コーナーでは、よもぎ洋風ソース、よもぎパウンドケーキ、よもぎ餅、朴の葉寿司、ひよし味噌など村ならではの味が堪能できる。また、グットウルフ麦酒の良狼、黒ウルフ、ゆずビーなどの地ビールなどもある。

 電話0746(42)0900

 年中無休、6:30~20:00営業

 

御菓子司・西善

 大字小川701にある「御菓子司・西善」は、三代続く和菓子屋。天誅組の変の時は、旅館だったそうで、この付近が激戦地となった。

 

銘菓「さきがけ」 

 同店の名物「さきがけ」はその志士たちの志を後世に伝えるため作られた。甘いものが苦手なおじさんたちにも人気で、あっさりした味。同店の人気商品「杣づと」はマルシェでも買えるが、「さきがけ」はここでしか扱っていない。

 電話0746(42)0061

 水曜定休日、8:00~20:00営業

 

 

升屋

 西善の向かい、大字小川727の「升屋」は吉野葛入りのもちっとしたコシ強の手延べ太そうめん「たあめん」が有名だ。

 電話0746(42)0020

 無休、9:00~19:00営業

 

 

丹生の糸・川口製麺所

 大字小川201の「丹生の糸・川口製麺所」は清流高見川のそばで、吉野葛入り手延べ麺を製造直販している。コシが強く喉越しも良い。

 電話0746(42)0310

 12/31~1/4定休日、8:00~18:00営業

 

 

三輪そうめん・冨永屋

 大字小1707の「三輪そうめん・冨永屋」は1983年の創業以来、手延べにこだわってきた素麺を製造販売している。歯ごたえ、喉越しの良い「むぎそば」やもちもちとした触感を楽しめる「ほうめん」を製造している。

 電話0746(42)0283

 不定休、9:00~17:00営業

 

 

よもぎ専門店・はなゆかり

 大字鷲家382の「よもぎ専門店・はなゆかり」では昔ながらの作り方や食材選び、手づくりにこだわって、よもぎ餅、よもぎこんにゃく、よもぎドーナッツなどを製造販売している。

 電話0746(42)0071

 火曜定休日(4・5月は除く)、9:00~15:00営業(商品売り切れ次第閉店)

 

 

天好園

 大字平野689の「天好園」は料理自慢の宿で、多くの俳人や歌人が集い、一万坪の庭園内には数多くの句碑が建っている。食事のみも歓迎され、猪、キジ、山菜、鮎、岩魚や鰻など季節ごとの味覚が楽しめる。

 電話0746(44)0117

 木曜定休日、11:00~18:00営業

 

 

たかすみ温泉

 隣接する「たかすみ温泉」につかって「湯煙に浮かんで消えた一句かな」と詠むのも良いかも。

 電話0746(44)0777

 木曜(祝日の場合は翌日)及び年末年始、定休日

 12月1日~3月15日 11:00~20:00(最終受付19:30)営業

 3月16日~11月30日 11:00~21:00(最終受付20:30)営業

 

 

 

ふるさと村

 大字大豆生739の「ふるさと村」は観光情報、食堂、宿泊施設があるビジターセンターやキャンプ施設などで構成され、思い切り遊べる。

 電話0746(43)0413

 火曜(祝日の場合は翌日)、定休日

 9:00~17:00営業

 

やはた温泉

 隣接する「やはた温泉」は清らかな四郷川沿いに湧く天然温泉。泉質は肌が新陳代謝するナトリウム炭酸水素泉(重曹泉)で、ひのき風呂や岩風呂が楽しめる。

 電話0746(43)0333 

 火曜(祝日の場合は翌日)及び年末年始、定休日

 11:00~21:00(12月1日~3月15日は ~20:00)営業

 

 

 

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山里に響く槌音 刀匠・河内國平師と東吉野村

 奈良県の東部、三重県との境にある霊峰・高見山の麓に位置する東吉野村は、緑深き山々と高見川の清らかな流れ、四季折々の自然が美しい風光明媚な土地だ。深い歴史・文化を有する地でもあり、神武天皇東征ゆかりの地、明治維新のさきがけとなった天誅組終焉の地、ニホンオオカミの最後の捕獲地などとしても知られている。都会の喧騒を離れたこの山里を仕事場に選び、鍛刀場を設立した刀匠が奈良県無形文化財保持者、河内國平師だ。

 

東吉野村鍛冶場での河内國平師(引用:[美しき日本] 奈良 東吉野村 https://u-nara.jp/archives/archive-71/)

 

 

刀匠・河内國平師の略歴

 1941年大阪市生まれ。奈良県指定無形文化財保持者。現代の刀匠のなかでも数少ない最高位の「無鑑査認定者」である河内國平師は、現代では不可能とされた平安時代末期~室町時代の古刀が持つ地斑「映り」の再現に成功し、刀剣界最高の「正宗賞」を受賞。関西大学法学部出身で、河内守國助から数えて15代目。

 

 河内師は東吉野村に鍛刀場を開設した経緯を次のように語る。


 「刀鍛冶では生活できない」という母親の強い反対で、サラリーマンの道を選んだのです。しかし血は争えません。刀剣の話題を通じて文学部の考古学の泰斗、末永雅雄博士とめぐり合いました。「日本上代の武器」などの大著もある博士の考古学にかける情熱と日本刀をめぐる博識に、河内國平師は強くひかれました。いつのまにか河内國平師は六法全書を放り出し、博士の研究室に入り浸り、砥石で土器磨きを教わっていました。
 

 在学中にほれ込んだもう一人の師は信州の刀匠で人間国宝、宮入昭平師でした。氏の著書を通じて知り、卒業と同時に弟子入りします。旅立ちの日、末永博士は千里山キャンパスの正門まで河内さんを見送り、「お前が修業を終えて帰ってくるまで生きていたい」と言って送り出しました。この超一流の学者はその後も、修業中の河内さんに足袋や下着などを送り、宮入師をして「お前ほど幸せな男はいない」と言わせました。5年後、河内さんは独立し、奈良県東吉野村の現在地に鍛刀場を設けます。(引用:関西大学教育後援会HP)

 

 

古刀に魅せられてー河内師に聞く

 東吉野村で古刀の復元に情熱を燃やし、現代に刀の美を伝える河内國平師。「幻の地紋」を復元した稀代の「技」と、今も変わらない熱い思いを聞くことができた。

 

古刀復元にかける情熱を語る河内國平師

 

 平成26年頃に、古刀で再現できなかった「映り」という「景色」が再現できました。その事で古刀の手法がある程度わかるようになりました。刀はせいぜい、江戸中期頃から幕末までは再現できてると思っています。しかし、それ以前のものは製法がわかりませんでした。江戸時代のことは古文書もあるので、大体わかるんです。ところが室町時代や、刀の最盛期、黄金時代の鎌倉中期から南北朝にかけての仕事は、まずわからなかったと言ってもいい。

 

 どういうやり方かを色々試行錯誤していく中で、当たったというか、発見できたんです。古刀と新刀との最大の違いは、実戦で使うかどうかです。基本的に火縄銃ができてからは、刀は主の武器でなくなる。そうすると今度は形骸化して、武士が腰に差す一つの象徴として、あるいは男の表道具として、刀が利用されるようになり、武器としての利用は少なくなるわけです。そうなると見栄えばかりになってきます。

 

 室町時代までの刀が、本当に使った刀と言えるかもしれません。幕末にもう一回刀を使う時代が来るが、江戸時代はほとんど戦が無いから刀の本当の使命が失われつつありました。そうすると作り方も変わってしまいました。我々が一番目指したかったのは、鎌倉中期頃の刀なんです。備前では一文字という流派が出て、大変な刀を作りました。同じ時期に相州の方では正宗が出ています。この頃が刀の一番黄金時代なんです。それには到底、及びません。せいぜい我々が知っている技術というのは幕末ですよ。それ以前の仕事というのはほとんど伝わっていませんでした。

 

 それが50年近く研究してきた中で、ふと当たったんです。その手法が。「あ、これか!」という。室町と同じ頃の、いわゆる、「映り」という景色、それができました。保存協会にも認められて、正宗賞を頂いたんです。一つの扉が開いたという感じがしました。「これがそうか」ときっかけになり、今までわからなかったものが一つずつ解明できました。例えば、一文字派の波紋の形は、実に自然で、深い焼きが入っていて非常に絵心のある波紋ができてます。部分的だけど、それができたんですよ。ようやく最近の作品は古刀に近くはなったなと。今までできなかった仕事ができるようになりました。

 

河内國平師の太刀 銘:(表)吉野山居八十翁國平製之無界(裏)令和二年祭笛之日

 

 ただし、わからなかった事を一つ解決しようとすると、これからまだ3~5年かかるんですね。一つ大きく扉が開けたけれども、僕も八十を過ぎて、今焦ってますね。生きている間に解明しないといけませんから。弟子たちに跡を継がさないといけないから、「ここまでは」という事は、全部教えておかないといけません。

 

 しかし物事って、深くて入り込むと幾らでも不思議な事が多くてね。例えば、伊万里でも古伊万里はやはり違います。伊賀焼でも古伊賀は違う。九谷焼でも古九谷は違う。皆、違いますよ。刀でも新刀はわかるが、古刀の事はわからなかったんです。それが一つ扉が開いたために、色んなことがわかってきました。総論がわかってきて、今から各論に入るという所かな。やりたい事が山ほどできてきて、一分一秒でももったい無いです、仕事場にいないとね。それはもう必死でやってますよ。余生が見えてきてるからね。3年や5年でできる仕事ではないから、何とかしなければと、今は本当に寝る間も惜しんでやっているという感じです。

 

 備前伝の中の初期の頃の古一文字、備前でも古備前という所までは来ていると思うんです。それがはっきりと目標になりました。今までは暗中模索でどこから掛かって良いかわからなかったんですが、扉が開くと今度は小さい扉がいっぱいあって、その扉を一つずつ開けていきます。古備前はこういう事か、古一文字はこういう事かと。これがわかってくると今度は、備前だけでなく、刀の流派で僕の一番の憧れは山城伝、これがちょっとわかってきました。

 

 刀を作り出して、50年にもなるんですが、やっと目標を絞れてきました。古備前、古一文字、古伯耆がやっとわかりかけてきました。道具は皆一緒だが、焼き入れの仕方が一番違います。これまでは美術刀剣という言葉のもとに、美術品として作る手法は伝わっています。それが古刀がわかってくると、「使う」とか、「切れる」という事はこういう事を言うのかと、わかってくるようになりました。そっちを主眼に置いて仕事をすると、職人仕事、古刀に近いものができてくると思います。古刀を見ていると、その仕事ぶりがいかにも職人らしくて、僕は好きですね。

 

 

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深吉野(みよしの)に育まれた「俳句の里」

 自然に抱かれた東吉野村は、またの名を深吉野(みよしの)とも呼ばれる。美しい清流や深い山々、そこに息づく素朴な山里の暮らし……。この深吉野の地に誘われ、数多くの俳人・歌人が俳句や短歌を詠んでいる。その一人が大正時代の俳壇で活躍した原石鼎(はら・せきてい、1886~1951年)だ。東吉野村では石鼎の人柄をしのび、その功績にちなんで「俳句の里づくり事業」が進められ、全国規模の俳句大会を開催してきたほか、松尾芭蕉や本居

宣長、山口誓子ら教科書などでもおなじみの俳人・歌人らの句碑・歌碑も数多く建てられている。

 

 

俳人 原石鼎と東吉野村

 原石鼎は1886(明治19)年、島根県簸川郡(ひかわぐん、現在の出雲市)で開業医の三男として生まれた。京都医専を中退し26歳の時、当時奈良連隊軍医の次兄のもとに身を寄せ、兄と共に東吉野村小(おむら)の出張所で医療を手伝いながら俳句や短歌を作った。

 

 高浜虚子が主宰した俳句雑誌「ホトトギス」に投稿して認められ、大正期のホトトギスを代表する俳人として一世を風靡。35歳の時に「鹿火屋(かびや)」を発行・主宰し、「花影」「石鼎句集」を作り、1951(昭和26)年、65歳で亡くなった。自然を詠んだ格調高い句を多く残しており、その作風は深吉野の地で育まれたものという。

 

 東吉野をこよなく愛した石鼎の遺言により東吉野村小の天照寺に遺骨が分骨されている。また、その隣には石鼎が暮らした旧家が「石鼎庵」として今日まで伝えられている。大正の俳壇・歌壇に燦然と輝く業績と、石鼎その人をしのんで、ゆかりの品を紹介。彼の暮らしぶりをしのばせる部屋や土間のたたずまい、在りし日の写真などを見ることができる。

 

                  石鼎庵

 

開館時間:AM.9:00~PM5:00(入館PM.4:30まで)

定休日:12月28日~1月4日

入館無料(事前連絡が必要)

[お問い合わせ先]

東吉野村教育委員会事務局 電話 0746-42-0441

 

 

東吉野村の句碑・歌碑めぐり

 東吉野村内には、石鼎のほか村ゆかりの俳人・歌人による深吉野の地を詠んだ句碑・歌碑が数多く建てられている。これらを巡りながら村内を探訪すれば、東吉野村の奥深い魅力に引き込まれることだろう。村内の幾つかの句碑・歌碑を紹介する。

 

 

東吉野村瀧野

佐藤鬼房「山祇の土になれゆく小楢の実」

 

草間時彦「千年の杉や欅や瀧の音」

 

 

東吉野村平野・天好園

花谷和子「満月のほたるぶくろよ顔上げよ」

 

阿波野青畝「大空のうつろよぎりし蛍かな」

 

日野草城「おのれ照るごとくに照りて望の月」

 

右城暮石「鷹舞へり青嶺に隠れ現れて」

 

松瀬青々「大峰の雪をよしのは春の風」

 

進藤一考「一本の林の前の朝桜」

 

茨木和生「水替えの鯉を盥に山桜」

 

 

東吉野村平野・たかすみ温泉駐車場入り口

水原秋桜子「冬菊のまとふはおのかひかりのみ」

 

 

東吉野村平野・平野水分神社下社

上田五千石「合流をはたしての緩冬芒」

 

藤本安騎生「小豆干す筵に晴れて高見山」  

 

 

東吉野村木津・宝蔵寺

能村登四郎「霊地にて天降るしだれざくらかな」

 

 

東吉野村木津

前登志夫歌碑「朴の花たかだかと咲くまひるまを みなかみにさびし高見の山は」

 

 

東吉野村鷲家・鷲家八幡神社境内

桂信子「おのづから伊勢みちとなる夏木立」

 

 

東吉野村鷲家・浄閑寺境内

松尾芭蕉「酒のみに語らんかかる瀧の花」

 

 

東吉野村中黒・村運動公園グラウンド付近河川敷

後藤夜半「国栖人の面をこがす夜振かな」

後藤比奈夫「おのづから人澄む水の澄める里」

 

後藤立夫「散紅葉赤外線を連れて散る」

和田華凛「水澄みて元素記号の変りさう」

 

 

東吉野村小川・ニホンオオカミ像駐車場横

三村純也「狼は亡び 木霊(こだま)ハ 存(ながら)ふる」

 

 

東吉野村小川・天誅義士明治谷墓所入口

原石鼎「花影婆裟と踏むべくありぬ岨の月」

 

 

東吉野村小・愛宕神社付近

原裕「あるときは一木に凝り夏の雲」

 

 

東吉野村小・同村民俗資料館付近

原石鼎「かなしさはひともしごろの雪山家」

 

宇多喜代子「生国はここかもしれず蓬摘む」

 

 

東吉野村小・丹生川上神社中社

原石鼎「頂上や殊に野菊の吹かれ居り」

 

井上通泰「離宮の行幸のたびに珍しと蛙の声を聞こしめしけむ」

 

森口奈良麿「東の瀧もとヾろに夢の回淵蟻通ひめす丹生川上」

 

鍵谷芳春「風の詩を碑として神涼し」

 

茨木和生「こっぽりの子が衝羽根の實を拾ふ」

 

山口誓子「瀧の水直ぐ透き通る神の淵」

 

 

東吉野村三尾・島神社横

森田峠「よき渕へ降りる径あり宮涼し」

 

 

東吉野村大豆生・やはた温泉キャンプ場付近

鷹羽狩行「深吉野の闇かきわけて蛍狩」

 

 

東吉野村大又・笹野神社

西東三鬼「鶯や水を打擲する子等に」

 

 

東吉野村大又・七滝八壺

三橋敏雄「絶滅のかの狼を連れ歩く」

 

 

東吉野村木津川・薬師堂

鈴木六林男「月の出の木にもどりたき柱達」

 

 

東吉野村伊豆尾・光蔵寺

小笠原和夫「梅雨茸に胸覗かれし放下かな」

 

藤本安騎生「朴の花木魚の音のして来たる」

 

 

東吉野村木津川・鳥見霊畤伝承地

山口誓子「日の神が青嶺の平照らします」

引用:https://urano.org/kankou/eyoshino/eyosi03.html

 

 

東吉野村杉谷・高見山小峠

本居宣長「白雲に峯はかくれて高見山見えぬもみちの色そゆかしき」

引用:(本居宣長記念館HP)

https://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/takamiyama.html

 

 

東吉野村平野・高見山頂高角神社殿脇

石上麻呂「吾妹子をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも」

引用:https://okkoclassical.blog.ss-blog.jp/2014-04-06

 

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明治維新のさきがけ 天誅組終焉の地・東吉野村

 1868年の明治維新よりさかのぼることわずか5年、王政復古を目指した志士たちは天誅組を結成し、現在の五條市や十津川村、高取町などを転戦し東吉野村で多勢の幕府軍と対峙して壊滅した。その志は道半ばとなったものの、明治維新の魁(さきがけ)ともいわれる。天誅義士の無念の足跡は村中に残され、悲劇の歴史を今日に伝えている。

 

天誅組とは

 天誅組とは、幕藩制度の過酷な支配体制を打ち破って王政を復古させようと、行動を起こした勤皇の志士達で、主将は明治天皇の前侍従中山忠光卿。総裁には、藤本鉄石(備前岡山)、松本奎堂(三河刈谷)、吉村寅太郎(土佐津野山郷)の3人。その他、河内の水郡善之祐、土佐勤皇党の那須信吾、大和中宮寺の伴林光平など約八十数名の多彩な人材が加わっていた。文久3年(1863)8月14日、孝明天皇が攘夷祈願の大和行幸すると報じられた。これを契機に、天誅組は皇軍御先鋒となって大和に先行し天皇の鳳輦(ほうれん)を迎えようと17日、大和五条の代官所を襲撃。ところが18日に京都で政変が起こり、天皇行幸は中止となった。このため決起の大義名分を失った天誅組は幕府から賊軍として追捕を受け、各地で敗戦し、東吉野村で事実上、壊滅した。

 

 そんな天誅組ゆかりの地を東吉野村における天誅組研究の大家、阪本基義さんに案内していただいた。県道220号線の天誅義士明治谷墓所から始まり、吉野ー東吉野線(国道16号線)沿いに北上、吉野ー室生寺ー針線(県道28号線)の天誅組史跡公園までの史跡をめぐった。

 

天誅義士 明治谷墓所

 この地で戦死した天誅組隊士の墓は、鷲家口に9基(吉村寅太郎・那須信吾ら)、湯の谷に5基(松本奎堂・藤本鉄石ら)といずれもまとまってある。天皇に逆らった「賊」として死んだ彼らだったが、明治になると新時代を拓いた「義士」として復権し、その霊は東京の靖国神社にも祀られた。その立派な墓碑が、かえって幕末の歴史の複雑さを感じさせる。 「大正2年の天誅組50回忌に御廟形式に作り直された」と阪本さんは語る。

 

天誅義士明治谷墓所(東吉野村小川)

 

天誅義士記念碑

天誅義士記念碑(東吉野村小川)

 

曹洞宗 宝泉寺〔宝泉禅寺〕

 「天誅組志士菩提寺」となっている。天誅組事変の際、鷲家口に布陣した彦根勢が篝火の代わりに寺を焼こうとしたのを、当時の和尚が阻止したという謂れのある寺で、鷲家口で戦死した義士や彦根藩士の菩提寺として、毎年、11月5日には天誅祭が法要されている。寺門には次のように書かれている。

 

天誅義士 
吉村 寅太郎
那須 信吾
宍戸 弥四郎
鍋島 米之助
林 豹吉郎
上村 定七(上村 貞心)
山下 佐吉(安田 鉄蔵)
天保 高殿
西田 二兵衛
彦根藩士
大館 孫左衛門
伊藤 弥左衛門
諸霊 菩提寺 宝泉寺

 

宝泉寺(東吉野村小川588)

 

天誅組遺跡 植村定七戦死の地

 定七は五條近在の人。各地に転戦し、9月24日、鷲家口の決戦では決死隊に加わり、那須信吾、宍戸弥四郎らと彦根藩脇本陣(碇屋)に斬り込んだ。定七は歩兵頭・伊藤弥左衛門を斃し、他の勢に加わるところを、現東吉野小学校西北詰めの小橋付近で狙撃され戦死した。

 

天誅組遺跡 植村定七戦死の地(東吉野村小川)

 

 

天誅組史跡 出店坂(旧四郷街道)

 天誅組は吉野郡川上村武木を経て、東熊野街道の足郷峠越、白屋越、東の川越で東吉野村の鷲家口に出て来る。9月24日夕暮れ過ぎのことだ。ここから摂津・河内方面へ逃れようと考えた。ところが鷲家口とその先の鷲家には、天誅組追討を命じられた紀州・津・彦根各藩が、陣を構え待っていた。天誅組は、土佐の那須信吾を隊長とする決死隊六名が出店坂を下りて彦根藩の陣営に突撃し、全員が戦死した。その隙に首領の中山忠光は高見川の支流・鷲家川に沿い、血路を求めて突き進む。

 

 

 

天誅組史跡 出店坂(旧四郷街道)(東吉野村小川557)

 

 

天誅組遺跡 宍戸弥四郎最後の地

  天誅組には文人あり、学者あり、政治家もあるが、弥四郎のような兵学者は少ない。弥四郎は軍の合図係となった。中でも9月7日、西吉野村の大日川の戦いの時、藤堂藩が兵600人を率いて和田村から進撃してきた。この時、大法螺貝を手にして全身の力を込めて武者押の譜を吹奏した。このため、敵兵は法螺貝の遠音に驚き逃げ足になったという。9月24日、鷲家口の決戦では、決死隊の一員に加わって敵陣に切り込み縦横に戦ったが、小川千代橋付近で、あやまって川の中に落ち、彦根兵の銃丸に斃れた。彦根藩士がその遺骸を調べると金貨10両に埋葬費と書いてあったという。

 

天誅組遺跡 宍戸弥四郎最後の地(東吉野村小川)

 

伴林光平の脱出路

 国学者でもあり歌人でもあった伴林光平は、天誅組の変が起こると、五條に駆けつけ、天誅組の記録方を受けもった。義挙失敗の後、9月21日に、鷲家口から脱出。法隆寺から磐船街道を大阪へ逃亡中に捕えられ、獄中で義挙の経緯を回想した「南山踏雲録」を執筆した。



伴林光平の脱出路(東吉野村小川2123)

 

 

天誅組遺跡 鍋島米之助最後の地

 9月24日夕、米之助は、那須信吾、宍戸弥四郎、植村定七らとともに、鷲家口突入の決死隊に加わり彦根藩陣屋を襲撃した。出店坂まできた時、四方から不意に狙撃され重傷をうけた。それにも屈することなく、鷲家口を切り抜け鷲家谷一ノ谷まで逃れ、辰巳友七の納屋に潜んで傷の手当をしていたところを彦根藩兵に包囲され、刀を振るいおどり出て戦ったが銃殺された。

 

天誅組遺跡 鍋島米之助最後の地(東吉野村小川1561)

 

天誅組終焉之地

天誅組終焉之地(東吉野村鷲家1790)

 

天誅組吉村寅太郎原えい處(処)

 9月24日から27日にかけて、東吉野村鷲家で三総裁以下15志士が戦死し、天誅組は終焉を迎えた。9月26日の夜に、潜伏していた木津川堂本宅前の薬師堂を出た総裁吉村寅太郎は、石の本の薪小屋に隠れていたところを見つかり、9月27日に残念岩の下流30mの所で藤堂藩金屋健吉に銃殺された。吉村の最後の言葉が「残念」だったと伝えられている。

 

 吉村寅太郎の遺骸は、村人の手によってこの岩の根元に埋葬され、土方直行の筆による「吉村寅太郎君原えい處」の碑が建てられた。「えい」とは、うずめる、墓などの意で、原えい處とは、もとその遺骸を埋めていたところを指す。明治29年(1896)に遺体が明治谷墓地に改葬された後は、吉村寅太郎を偲ぶ記念碑となっている。

 

天誅組吉村寅太郎原えい處(東吉野村鷲家1790)

 

 

湯ノ谷墓地

 湯ノ谷墓地には戦死した天誅組の義士5名が祀られている。
 藤本津之助(鉄石) 松本謙三郎(奎堂) 森下猪久馬(幾馬)
 福浦元吉 村上万吉

 

 墓地横には天誅組総裁 松本奎堂生誕の地である愛知県刈谷市から取り木された桜が植樹されている。

 


湯ノ谷墓地(東吉野村鷲家1617)

 

天誅組史跡公園

 東吉野村鷲家には、同地の住民らが私費で整備した「天誅組史跡公園」がある。総裁として天誅組を率いた一人、松本奎堂が紀州藩の銃撃で戦死した山中への登り口にあたり、奎堂の出身地、愛知県刈谷市の旧国民学校が昭和17年に石碑を建てていた。

 

 同公園は誰でも自由に出入りできる広場で、天誅組の歴史を通じて村内外の交流を育くむとともに、維新のさきがけとなった歴史の舞台を後世に伝えている。

 

 

 

 

天誅組史跡公園(東吉野村鷲家)

 

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冬の贈りもの 霧氷が咲く東吉野村・高見山

 三重県との境にある奈良県の東吉野村は美しい清流と深い山々に囲まれた自然あふれる村。冬には高見山などで霧氷が観測され、多くの登山客を魅了している。春の足音が聞こえ始める、この時期の東吉野村の見どころ、ぜひ訪ねたいスポットを紹介する。

 

マッターホルンは関西にもあった⁉

高見山

 新木津トンネルより高見山を望む

 

 紀伊半島東部、台高山脈北端に位置する高見山(標高1,248m)は、奈良県吉野郡東吉野村と三重県松阪市(旧飯南郡飯高町)との境界にある山だ。東西に長い山容のため、南北方向から見るとなだらかな山に見えるが、東西方向から見ると尖って見える。その三角錐の尖った山容から「関西のマッターホルン」の愛称をもつ。その山頂からの贅沢な眺望は通年楽しめるのが高見山の魅力だが、厳しく冷え込んだ晴れた冬の朝にしか見ることができない霧氷風景は一度見たら毎年見たくなるほどすばらしい。標高差約700メートル、行程約10キロメートルのルート。がんばって急なのぼりを越えればすばらしい景色が広がる。

 

山頂は360度の大パノラマ!

山頂からのパノラマ

高見山からの展望

 

 山頂からは三峰山や金剛連山、台高山脈など360度の大展望が開け、見晴らしのよさから山名がついたともいわれている。また山頂には神武天皇東征の折に案内を務めた八咫烏(やたがらす・サッカー日本代表のエンブレムの意匠)を祀る祠もある。山頂へは三重側、奈良側から登山道が延びるが、近鉄榛原駅からのバス便がある高見登山口バス停を起点に山頂に立ち、たかすみ温泉に下山する奈良側のコースがおすすめ。下山後は、たかすみ温泉で心も体もリフレッシュ。霧氷がブナ林を飾る厳冬期は榛原駅からの霧氷バスも運行されるほどの人気だが、地面が凍結しているため、完全防寒装備とアイゼン等雪山装備が必要。

 

便利な霧氷バスで冬山体験!!

          発達した霧氷


 今月21日、大阪府松原市から来た4人連れの女性グループは「今年2回目の雪山。霧氷が5センチくらいに発達してた。雪は高見峠から多かったが、アイゼンは高見杉から履かないといけませんでした。家族連れが多かったです。中には、赤ちゃんを背負って登ってきたお父さんもいました」と、遅い昼食をとりながら話してくれた。兵庫県三田市から来た年配の夫婦は「霧氷がいっぱいで素晴らしかった。今年が2回目で、去年は暖かったので、霧氷がそんなに無かったが今日は、見事な霧氷が出ていました。山頂は風が強かったので、祠の近所の避難小屋で皆、食事をとっていました。ここまでは、電車とバスを乗り継いできました。昨夜は八木にホテルをとって、今朝は榛原から霧氷バスに乗ってきました。先月も霧氷バスで三峰山に行きました」と満足げに話した。

 

 霧氷バスは今月27日まで運行。

 奈良交通霧氷バスのご案内はこちらから

 奈良交通霧氷バス

 

登山の後は「たかすみ温泉」でほっこり!!!

たかすみ温泉のマキ風呂

 

 東吉野村平野835「たかすみの里」にある「たかすみ温泉」は、高見山登山を終えひと汗流しに来た人々で盛況だった。副施設長の加古川香さんは「施設は約25年前にできたが、私は18年ここで勤務しています。今の時期が最盛期です。夏はこの裏の高見川の川原の石畳がテントでビッチリと埋まります。コロナでここ2年は利用禁止ですが、河原は浅瀬なので、小さいお子様の水遊びには人気があります」と話す。温泉は、木の香りがすがすがしい贅沢なマキ風呂、ヒノキ風呂。自然のなかにすっぽりと包まれたような気分になれる露天の岩風呂。濃い緑の森を抜けてきた風と鳥のさえずり・・・。

 

 子どもらの水浴びで賑わうたかすみ温泉裏の高見川の川原

 

 初夏の夕べにはホタルに会えるかもしれない。併設するたかすみ文庫では、著名作家の遺墨や書画など貴重な文化遺産を収蔵している。俳人・山口誓子や、詩人・土井晩翠、そして深吉野に緑の深い原石鼎ほか数多くの作家の気品溢れる作品群。諸作品は適時展覧されている。

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