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街頭をゆく 田中泰延 安堵町紀行(後編)偉人列伝篇

 

 

3つの川が交わる町、安堵町。そこは道も歴史も、また偉人たちも交わる地でした。

 

 

後篇もよろしくお願いします。田中泰延です

 

 

 

『街頭をゆく』あいかわらず司馬遼太郎『街道をゆく』とまぎらわしいこのコラム。

 

この紀行は、大作家の『街道をゆく』とは全然違って、歴史を伝える街道を思索しながら歩くのではなく、なんとなく街頭をぶらつくという、あまり苦労のないレポートです。

 

 

あらためまして田中泰延(たなか ひろのぶ)です。

 

拙著、『読みたいことを、書けばいい。』いやあ、思いもよらなかったほどにお買い上げいただきまして現在16万部。びっくりしております。

 

 

さあ、これから何を書けばいいんだと迷う必要も案ずる必要もなく、安堵町のことを書くという運命でございます。ありがたいことでございます。

 

 

さて、後編です。奈良県生駒郡安堵町は前回から特に位置を変えず、ここにあります。

 

(奈良県安堵町位置図 ©Shogakukan 作図/小学館クリエイティブ)

(奈良県安堵町位置図 ©Shogakukan 作図/小学館クリエイティブ)

 

前篇では奈良県立美術館で、安堵町が生んだ偉大な陶芸家、富本憲吉の歴史と作品を辿りました。

 

 

街頭をゆく 田中泰延 安堵町紀行(前篇)富本憲吉篇

 

 

 

いよいよ安堵町へ

 

 

 

ご案内くださるのは、安堵町総合政策課 課長の富井文枝さん。

 

では、行きましょうか。

 

 

よろしくおねがいいたします。奈良駅前の県立美術館から、安堵町までは、どのくらいの距離ですか?

 

 



車で30分くらいでしょうか。まもなく安堵町役場です。

 

 

 

 

 




えっ?いまなんか大きなものが見えましたよ。

 

 

安堵町役場に着きました。

 

 

(答えてくれないのかよ!!)

 

 

 

 

お出迎えくださったのは、安堵町の西本安博町長。

 

 



ようこそ安堵町へ。初めてでいらっしゃいますか。

はい。初めてを通り越して、安堵町という街の名前もはじめて聞きました。

 

 

 

 

 



安堵町は古代は「あくなみ」と言われてまして、大和川、岡崎川、富雄川、三つの水に関わって生活してきた土地なんです。川の水運を持って堺まで行き来していたのが発展の基礎になったんですね。

 

水域がひとつの生活拠点となったわけですね。

 

 

 

以前、東吉野村へ行かれたと聞きましたが、天誅組の思想は、ここ安堵町で生まれたんです。

 

はい。東吉野村へいってきました!あの幕末の討幕運動、天誅組はここから始まったんですね。

 

 

 

 

 

街頭をゆく 田中泰延 東吉野村紀行

 

 

 

 

 

私たちは『大和維新』と呼んでいますが、そこで大きな役割を果たしたのが、幕末の医師・儒学者である今村文吾(いまむら・ぶんご)

 

 

 

 

今村文吾の尊王思想が明治維新に大きく影響を与えたんですね。知らん人でした〜。へぇ〜。

 

天誅組が敗走したとき、維新百傑に数えられる国学者・伴林光平が安堵の今村文吾のところに立ち寄ったが会えずに自首したんです。この人が伴林光平(ともばやし・みつひら)ですね。

 

 

 

その五年後に明治維新が成立するんです。だから、維新の始まりも、天誅組の終わりも実はこの安堵町。

 

 

 

 

 

 

その今村文吾の甥が、今村勤三(いまむら・きんぞう)

 

 

 

甥っ子さん。

 

奈良って、「堺県」(のちに大阪府に編入)の一部だったんです。

 

え〜っ!堺の一部が奈良だった?!

 

今村勤三は、明治14年に大阪府議会議員になったんですが、私財を投じて奈良県の再置運動に力を尽くしまして、明治20年に奈良県の独立が認可され、初代奈良県議会議員に就任したんです。

 

奈良独立の父ですね。

 

さらに、その今村勤三の息子が大阪帝国大学微生物病研究所長、その後、大阪帝国大学総長もつとめた今村荒男(いまむら・あらお)

 

 

 

今村さんの家から3人も偉人が。

 

 

この3人が、安堵町の「今村三代」と呼ばれています。

 

 

    

 

 

今村荒男は、日本で初めてBCGワクチンの人体接種に成功して、結核予防と治療に尽力したんです。日本結核病学会には「今村賞」が設けられてるんです。

 

 

人類はずっと感染症と戦う歴史ですが、今村荒男さんは伝染病と戦って大きな功績を残さはったんですね。

 

そしてその今村荒男は、先日ご覧になられた富本憲吉の同級生なんです。家も、お互い見えるような距離で。

 

街頭をゆく 田中泰延 安堵町紀行(前篇)富本憲吉篇

 

 

 

 

 

2人は子供の頃からチャンチャンバラバラしたりしてたと思うんですよね。その今村家はいま、「安堵町歴史民俗資料館」になっています。のちほどご案内します。

 

 

  

 

 

そんな偉人がこの地域に同時代に。言うたらなんですけど、小さい町ですよね。

 

広さでいうと、町村としては日本で3番目に小さいんです。市を入れても7番目に小さいんです。

 

えらい密度で全然違う分野で偉人が出たんですね。

 

この町役場のすぐ裏に、富本憲吉が焼き物に使った「うぶすなの土」を採った下池があります。

 

 

 

 

 

 

 

安堵町で笑い話になってるのはね、いまも安堵町の人の家にはゴロゴロしてると思うんですけど、富本憲吉が焼いた皿やお椀がいっぱいあるんですよ。

 

え〜!人間国宝の皿が?!

 

 

富本憲吉当時の若い人に、使いを頼んだらお駄賃に焼き物をあげてたんですよね。

 

みんなそれに普通にご飯やおかずを乗せてたんですね。

 

それどころか、猫や犬に餌をあげる皿に使ってたんですよ。

 

(爆笑)

 

のちのち、その人が人間国宝になった!!言うてみんな猫や犬から急いで皿を取り上げて洗って床の間に飾ったというね。

 

 

 

 

一番の被害者は急に皿を取り上げられた猫や犬ですよ。

 

(大爆笑)

 

そんな話もありつつ、今村家跡「安堵町歴史民俗資料館」に行ってみましょう。

 

 

 

 

 

まもなく安堵町歴史民俗資料館です。

 

 

 

 

これがさっき申し上げた、天誅組の伴林光平が今村文吾のところに立ち寄ったところです。

 

 

 

伴林光平は、自分は追われている身だから、迷惑かけてはいけないということで、この格子から手紙を投げ入れて立ち去ったんですね。

 

それがそのまま残っているんですね。

 

 

今村文吾の次は今村勤三の足跡をみてみましょうか。

 

 

 

今村勤三は奈良県独立を果たした後、第1回衆議院議員になり、奈良県で初めての新聞「大和新聞」を発刊したんですね。これです。

 

 

 

今村勤三の生涯は、歴史小説家の植松三十里さんが『大和維新』という小説で熱く描いておられるのでぜひ読んでみてください。

植松三十里『大和維新』(新潮社 2018)

 

 

 

そしてさらにこの家で、勤三の息子の今村荒男は富本憲吉と遊んでおったと。

 

すぐそばが富本憲吉の生家です。

 

 

 

西本町長、ありがとうございました。どんなガイドさんより熱く安堵町を語っていただきました。なんにも知らない私に、また世界がひとつできました。

 

この小さい町で生まれ育ったんですけど、興味深いこといっぱいあるんですよ。またぜひきてください。

 

 

 

 

では、お昼ご飯にしましょうか。

 

なんと!待ち構える安堵町総合政策課 課長の富井文枝さん、行きましょう。

 

 

 

 

 

いまなんか大きなものが見えましたよ。

 

すぐに今日のお昼ごはんを食べるお店に着きます。

 

(答えてくれないのかよ)

 

 

 

 

 

自家製パンがおいしいカフェ、「樸木」(あらき)さんです。

 

わしにそんな乙女なもん食べえ言うんか。

 

 

 

 

きゃー!かわいい店内!

 

…。

 

ボク、ファラフェルのサンドイッチ

 

…。

 

 

 

 

 

ファラフェルとは。

 

ひよこ豆のコロッケですよ知らないんですか。

 

…。

 

 

足りますか?

 

足りません。食パンください。

 

 

 

いかがでしょう。

 

天然酵母が最高です。マイ食パンオブザイヤー受賞ですね。

 

 

 

このあとは富本憲吉が…

 

ちょっといま話しかけないでください。

 

…。

 

 

 

 

 

 

いまなんか大きなものが見えましたよ。

 

富本憲吉が書画や皿に描いた図案は、ここ安堵町にそのまま残っている風景なんです。

 

(答えてくれないのかよ)

 

 

 

はじめに、「高塚の老樹」の図案の場所にいきましょう。

 

 

 

 

 

樹木も小屋もそのままのものではないんですが、雰囲気は残っていますでしょう。

 

同じアングルで見ると、不思議な気持ちになりますね。

 

次は「曲がる道」と呼ばれる図案です。こちらは、道がそのまま残っています。

 

おおお、70年の時を経て、そのままの急角度が。

 

 

 

 

 

 

 

変わらない景色を歩くと、富本憲吉がいかに故郷を愛していたがわかりますね。

 

雨が強くなってきましたね。

 

傘までありがとうございます。

 

雨といえば、富本憲吉の図案の中でも有名な「大和川急雨」の景色がこちらです。

 

 

 

あちら。

 

そちら。

 

 

 

 

雨に降られてそのとき見た情景が、その後繰り返し描く「デザイン」になるというのは、アートの不思議ですね。

 

 

 

 

では、最後に、飽波神社(あくなみじんじゃ)へ行きましょう。聖徳太子が創建したと伝わる安堵町の鎮守です。

 

 

 

 

 

 

す…するとあの巨大なサムシングは!!

 

 

 

境内には聖徳太子が腰を掛けたという伝承のある「腰掛石」があります。安堵町には、聖徳太子が斑鳩宮から飛鳥まで通ったとされる太子道が通っているんです。

 

 

 

 

しょ、聖徳太子が!

 

 

 

いた!いてはった!!

 

 

 

若干…イメージちゃうけど…座ってはる!!

 

 

 

さいごにお教え願いたんですが…あの巨大生命体は…やはり

 

 

 

はい。いろんな場所から何度も見えましたね。「安堵町かかし公園」の聖徳太子像です。高さ約12m重さは約3トンで、法隆寺の方角を向いています。安堵町は、「かかし」で町おこしに取り組んでいます。ぜひ、ご覧になっていってください。

 

 

 

 

で、でかい。

しかも、何やら多数のかかし的な人たちを引き連れておられるぞ。

 

 

 

 

 

犬的なかかしもおった。しかしなぜ西郷どん。

 

 

 

こ…これは!!素早く自慢するとパリのオルセー美術館で見ましたよ!!落穂拾い。かかしにやらせる仕事でしょうか!!

 

 

さて、聖徳太子。

 

2020年のいま、日本が、世界が未曾有の災禍に襲われています

 

聖徳太子にはいろんな伝承がありますが、推古天皇元年(593年)、大阪に四天王寺を建立した際に、民衆の病気治癒や療養のために施薬院、療病院、悲田院・敬田院の四箇院を建てたと言われています。

 

 

 

また『日本書紀』には、推古天皇21年(西暦613年)聖徳太子が、人が道で倒れていたので飲食物を与え、自分の衣服を脱いでその人にかけてあげ、「安らかに寝ていなさい」と語りかけたという「片岡飢者伝説」が載っています。

 

こんな時代だからこそ、わたしたちは聖徳太子の精神を思い出し、お互いに思いやり、協力しあって、災害を乗り越えていきたい。

 

私は太子道をたどり、安堵町のお隣、斑鳩町の法隆寺にも訪れました。

 

 

 

私も、聖徳太子のようでありたい。

 

 

 

また来ます 3つがひとつに 安堵町

 

 

日本の町村で3番目に小さな町で、3つの川がひとつになり、3人の英傑が生まれた地。

 

古代の聖人が歩き、歴史の転換点の始まりと終わりになった地。

 

芸術と科学の分野で先駆けとなった人たちが育った地。

 

ここには、偉人たちの物語が詰まっていました。

 

 

 

静かな中に不思議な密度を持った安堵町を、以前のように自由に旅をして、人に会える時期が戻ってきたら、私はまた必ず訪れることでしょう。

 

ありがとう安堵町。今の時代に必要なことがたくさんありました。きっと、必ずまた来ます。

 

 

 

安堵町ホームページ

 

 

http://www.town.ando.nara.jp

 

 

[ライター・撮影]

 

 

田中泰延

1969年大阪生まれ
株式会社 電通でコピーライターとして24年間勤務ののち、2016年に退職。ライターとして活動を始める。

2019年、初の著書『読みたいことを、書けばいい。』を上梓。

Twitter:@hironobutnk

 

[広告主]安堵町

[編集・撮影]奈良新聞デジタル編集部

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