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アートの役割を模索。自分の街への愛しさを喚起する芸術祭 - 大学教授 宮本武典

「アートは、社会でどういう役割を果たしていけるのか」。山形県山形市にある東北芸術工科大学教授の宮本武典さんは、東日本大震災をきっかけにアートの役割を強く意識するようになりました。奈良で生まれた宮本さんは東京の美術大学を卒業後、海外で暮らしたり、美術館に勤めたりして、アートに関連する企画やマネジメント、展覧会のキュレーションを行ってきました。

 

山形の地に来て14年目。現在は大学教員として教壇に立つ他、山形市内で2年に1回開催している現代アートのフェスティバル『みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ』(以降、『山形ビエンナーレ』と表記)のプログラムディレクターを務めています。また、個人の活動でも、デザイナーとチームを組んで社会貢献のためのアートプロジェクトを立ち上げたり、本を出版したりするなど、ものづくりや表現の周辺にあるさまざまな企画に携わっています。

 

奈良に住んでいたのは、父親の転勤で東京に引っ越すことになった16歳までです。両親ともに県外の出身のため、奈良との縁はその時で切れてしまいましたが、「そこで見てきた風景、体験したことは、今の自分の仕事にすごく大きな影響を与えている」と言います。

 

 

生活者としての縁は切れても強く感じる奈良での原体験

―― アートに関わる仕事に携わっていると、ご自身の中に奈良の影響を感じることがあるそうですね。それはどのようなところなのでしょうか。 

 

子どもの頃、美術館よりもお寺とか神社に行っていました。最近、「アート作品をどう展示していくのか」を考える時、自分の中のベースが、仏像や天井画など、奈良の社寺仏閣で出会ってきた造形との対話からきていると思いました。

 

また、新しい土地と関わる時、その町や土地の信仰のあり方、歴史から入っていく。その上で、今の問題や新しい創造をどうしていくのかを常に考えます。そこから切り取って発想しないのは、僕自身がそういう古いものに対する敬意を内在化しているところがあるのかなと思います。

 

―― 歴史という土台をしっかりと確認した上に表現をのせていく、組み立てていくということでしょうか。

 

いにしえの人たちとつながって「今、ある」というのを感じざるを得ない「つながっている感じ」というのがあると思います。どういう人でも、みんな、頭では分かっていると思います。でも、奈良で育った自分はそれをもう少し身体的に知っている。

 

父が考古学の仕事をしていたということもあり、お寺や遺跡はとても近しい存在でした。飛鳥小学校に通っていた頃、学校のグラウンドで発掘調査がずっと行われていたり、ちょっと悪いことをすると母に「閻魔様のとこ(閻魔大王の彫像がある百毫寺)連れていくよ」と言われたり。国宝の十二神将という仏像がある新薬師寺にもよく遊びに行っていましたが、「なぜあんなに怖い顔をしているのかな」と考えたりもしました。好きというよりも恐れ、“畏怖”の方ですね。

 

東日本大震災の後、支援活動で石巻の方に行き、自分の中で神話的なイメージだった「賽の河原」は本当にある風景なんだと感じたり、民家は流されているのに津波を避けるように神社だけは高台にあって残っていたりするのを見ました。過去との接続というものを、大震災の後にもう一回取り戻す、それを切らさずに生きていくというのは、ものすごく大事なことなのだと感じました。

 

 

―― 大人になった今、子どもの頃に見てきた風景を思い返してみることはありますか? 

 

自分が生まれ育った地域なので、専門家としての目線で見るのではなく、「子どもの時に奈良で見てきた“あれ”はなんだったのかな」と、もう一回知りたい、見直したいという気はします。

 

小さい時、父に連れられて二月堂のお水取りに行きました。電灯のない参道に石灯篭が点々と光り、群衆が行き交っているんです。暗い中、はぐれまいと必死に親と手をつないで二月堂に行くと、大きな松明を振り回していて。無病息災を祈願して、炭化した杉の葉がバラバラと落ちてくるところに、僕らの目の前でおばあちゃんたちが飛び込むんですね。その火の粉の中に。

 

「現代アートはよくわからない」と言われるけれど、この光景の方がよっぽど不思議です。なんのためにやっているのか。でも、由来をたどるといろいろあるんです。新薬師寺の十二神将の恐ろしい顔にも理由がある。

 

―― 小さい頃のそういう経験は無意識の中に残っていますね。

 

そうですね。自分が子育てしている中で、改めて気づくこともありました。そういう意味では、高校生までで生活者としての奈良との縁は切れてしまったけれども、子どもの頃の影響というものは自分の中にずっとある。最近特にそう感じます。

 

社会にどう関われるのか。震災で意識したアートの役割

 

東北芸術工科大学のキャンパス
(画像提供:東北芸術工科大学)

 

―― 隔年開催の芸術祭『山形ビエンナーレ』を始め、山形や海外で地域のモノづくりの支援や後継者の育成、本の出版など、現在は大学教員としての仕事に留まらず様々なプロジェクトを手掛けていらっしゃいますが、アートの役割を考えるようになったきっかけは2011年の東日本大震災だったそうですね。

 

「クリエイターたちが自分の表現を追求するだけではなく、アートを介して社会、時代というものに対してどうポジティブに関わっていけるのか」ということを考えるようになったのは、震災の影響ですね。

 

それまでは、「アートの中で活動する、ものを考えていく」という枠から出られなかった。それが被災現場でさまざまな職業や立場の人々と協働していると、「自分に何ができるのか」を考えざるを得なかった。そこで自分の視野が広がったという気がしています。今は、どの組織でも、どのフィールドでやっていても「アートは社会でどういう役割を果たしていけるか」と考えます。

 

―― 震災の後は、どのように動いていったのでしょう。

 

学生たちと、さまざまなプロジェクトを立ち上げて支援活動をしました。最初は山形も2日間電気が通らなかったので、寒かった。東北の大学なので、被災した地域出身の学生も多くいました。でも、自分のふるさとがどうなっているのか情報もない。とにかく大学に集まって、情報共有から始まりました。

 

1年半くらい毎週土曜日にバスで石巻などの被災地に通いながら、並行して福島からの母子避難者のサポートをしました。学生たちも頼りにされていたし、建築家やアーティストの人たちから「何かできることはないか」という連絡が続々と入ってきました。被災地のニーズと彼らの専門性をマッチングしてプロジェクトを作っていきました。

 

山形県復興・避難者支援室『平成23年度山形県内における避難所別避難者数』によると、2011年9月8日時点での山形県の宮城県及び福島県からの避難者受け入れは11,802人。内、4,382人は山形市への避難。

 

―― アーティストたちからの連絡は美術系の大学ならではですね。時間とともに、必要とされる支援の形は変わっていったのでしょうか。

 

最初は物理的な支援しかできませんでしたが、段々と出番が増えていきました。山形県内は、母子避難で子どもたちも未就学児というケースが多かったので、支援したい山形のお母さんたちと、避難して来られたお母さんたちとをつなぐワークショップ・イベントを定期的に開きました。“支援者”と“被災者”に分かれてしまわないように、親子で一緒に参加しながら自然に仲良くなっていけるようにしました。

 

―― なぜ、避難してきた人との間に溝ができないような心遣いをしたのでしょうか。

 

実際にあれだけのことが起こったので、支援する方も、支援される方も悩みます。また、東京の人たちが東北を支援するというのと、同じ東北の中で支援するというのとでは関係性も違いました。8年も前なので忘れがちですけれど、当時は言葉も関係も慎重に選んでいた。「がれき」という言葉一つ取っても、「いや、それはごみじゃない。がれきって言葉を使わないで」とか。

 

事情も立場もさまざまです。福島県から避難する人、しない人、どちらか一方を支援してもよくない。僕らは山形に避難した人も、福島の中で放射能と闘いながら子育てされている方も支援しました。色々と考えないとできないことだったなと思います。

 

―― 支援活動の運営側には学生も参加していたのですか? 

 

はい。学生と教員というよりも、フラットな仲間という感じですね。当時の学生たちは、みんな社会に出て活躍しています。美大生にはものを作ったり、表現したり、伝えたりする才能があります。それを自分の自己実現のため、ビジネスに使うだけではなく、地域と関わる、地域の中で自分たちがやれることを探してどう社会に貢献できるのか、自分自身の生き方としても考えていくようになった。これは、『山形ビエンナーレ』など他のアートプロジェクトでも基本的なテーマとして考えています。

 

「地域の問題はある」それも含めて愛しく思える取り組み

 

『山形ビエンナーレ』のメイン会場、文翔館のバルコニーから市街を望む
(画像提供:東北芸術工科大学)

 

―― 震災が起きたのは宮本さんが山形に来て6年目の時だったこともあり、山形や東北の事情も考慮しながらニーズや心情に寄り添う支援を行うことができたのではないかと思います。大学に赴任した14年前は、見知らぬ土地でどのように地域のプロジェクトを立ち上げていったのでしょうか。

 

最初は“ヨソモノ”的な挫折があり、2年に1回開催される山形国際ドキュメンタリー映画祭や民俗学の研究者たちとの出会いがあって、地域に入っていく姿勢や、見つめる眼差しみたいなものを山形から教わりました。そこに、僕がもともと持っていたアーティストをどうマネジメントしていくのかというのと併せて、地域の活動につなげていきました。

 

―― 「挫折」というのは、いわゆる現代アートで世界的に知られているような作家の展覧会を企画していた時ですね。「そのアーティストは山形とどういう関係があるのか」と地元から少し冷めた目で見られていたとか。その後、アーティストが山形に滞在しながら山形をテーマに作品を作っていく形にしたところ、評価が一変したそうですね。

 

「自分たちの山形を、外の人たちはどんな風に表現しているのか」というところに、すごく関心を示してくれました。さらに、僕らが山形に密着し始めると、今まで“グローバルスタンダードで良い”というものを山形に持ってきているのを見て「ああ、山形も頑張ってるね」という反応だったアート業界の人たちも含め、全国の人が興味を持ってくれるようになりました。

 

「(アートを)啓蒙しよう」という意識よりも、アーティストに山形を発見してもらったり、掘り起こしてもらったりするということの方が、いろいろな状況を動かしていく展示になるのだなと思いました。

 

よく最適解というのですが、それぞれの場所に、それぞれに相応しい答えがある。山形で重要だったのは、ドキュメンタリー的視点から入っていくというところ。その地で求められている表現。そこに重要な僕なりの仕事の仕方があることを見出しました。

 

ポスターでは少女がさまざまな山形のものに囲まれている
(画像提供:東北芸術工科大学)

 

―― 2018年秋には東北芸術工科大学が主催する2年の1回の現代アートのフェスティバル『みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ』を開催しました。3回目となる今回も、メイン会場は山形市内にある国の重要文化財『文翔館』です。テーマは「山のような」。山形出身の絵本作家、荒井良二さんと組み、山形の現在だけでなく、過去や未来にも光をあてるアイデアや協働を山のように生み出していくことを目指したとか。

 

地域の課題を含むようなプロジェクトを立ち上げる時には、その地で生活している人に対して「これが課題です」と突き付ることになってしまうこともあるのでないでしょうか。でも、何かしら問題を感じていても、見たくない人もいるかもしれない。『山形ビエンナーレ』での表現で工夫していることはありますか? 

 

確かに、地域の問題を指摘することでもシャープな表現はできます。震災や原発、過疎、人口流出という、東北のネガティブなテーマだけでプロジェクトを作ることもできるけれど、住んでいる人には辛い現実でもある。それはもしかしたら、対象の地域からすごく遠く離れた人の仕事。僕らは中にいる人間なので、そこに気づいていながら、みんなでもうちょっとわくわくするやり方で、地域課題に取り組めたらと。

 

『山形ビエンナーレ』は、意図的にカラフルで愛らしいものとして山形を表現しています。その街に住んでいる人たちが自分達の地域に対して感じる愛しさや誇り(シビックプライド)を、どう喚起できるかを意識しています。

 

問題は、ある。あるけど、それも含めてここでの暮らしを大事に思える。大事だから、なんとかしようという。「やっぱり山形、いいよね。素敵だよね」と山形の人が思ったり、それを外の人がしっかり言ってくれたりすることによって、「あ、そうなんだ」と気づける。そういう場面をいっぱい作っていくというのが大切だと思っています。

 

『山形ビエンナーレ2018』文翔館の議場ホールでのライブ
(画像提供:東北芸術工科大学)

 

―― 『山形ビエンナーレ』はアーティストを呼ぶだけでなく、学生の他、一般の市民も参加していますね。

 

全てのプロジェクトが参加型というわけではありませんが、参加してくれる市民の人たちは、山形で暮らすことを決断した人たち。地域を変えていくには、その地域に根を下ろした人たちとどういう体験をするかがすごく重要なことです。

 

外からアーティストを連れてくるのは実は簡単です。でも、アーティストと一緒にその場を作っていける地元の仲間を増やしていかないと、結局トレンドを消費するだけのお客になってしまって、文化の自立が生まれない。「仙台や東京や京都で何が流行っているかは知らないけれど、山形はこれがおもしろいよね、これがかっこいいよね」と、自分たちで場やものごとを作っていける人がいっぱいいることが、一番望ましい。地域にとっていいことなのではないでしょうか。

 

―― これまで3回『山形ビエンナーレ』を開催しましたが、どのような変化が生まれていますか? 

 

2018年は13日間で、64,000人の来場がありました。山形は22万人の小さな地方都市ですが、“大きな予算がなくても、D.I.Yでここまでできる”というモデルケースとしてアートやデザインで地域づくりをやりたいという人たちが関心を持って見てくれる芸術祭になってきました。1回目の時はなかった古いビルや歴史的建造物をリノベーションしたギャラリーやカフェも街に生まれてきています。

 

―― 「山形ビエンナーレ」を作る上で大事にしていることは何でしょうか。

 

「ものとしては残らないけれど、体験や記憶として身体に残っていくものを、どれだけ豊かに作れるか」というのはすごく意識しています。音楽や、詩の朗読、食。要するにその場に来ないとわからない。けれど、その場に来て、それを受け取った人は一生忘れない。

 

そしてプロセス。綺麗に誠実に、どこまで丁寧に作っていけるか。今のお客さんたちも、お金をかけてぱっと即興的に作れたいいものと、「これは時間かけないと無理だよね」というのは、ちゃんとわかるんです。

 

展示されているものはささやかでも、どうやってそこにたどり着いたのかを公開しています。『山形ビエンナーレ』には、それを確認しにくる。「ずっと見ていたあれはこうなったの」と。やっぱり、ソーシャルメディアの力はすごく大きいと思います。

 

画家・絵本作家のミロコマチコさんによるトーク
(画像提供:東北芸術工科大学)

 

街の記憶が描かれた本は未来へのバトン

 

右手奥にあるのが、荒井良二さんが描いた「山のヨーナ」
サウンドトラックのジャケット

 

―― 多くの場合、展覧会ではカタログがあります。でも、『山形ビエンナーレ』では、そういったドキュメント的なものはありませんね。

 

本も作っていますが、もっと作品的なものですね。『山形ビエンナーレ』はずっと絵本作家の荒井良二さんと共同でやってきて、この芸術祭自体が一つの大きな絵本というか、一つのストーリーブックになっていることを意識しています。

 

街の中に彫刻のようなものは残らないけれど、街のストーリーが本棚には残っている。それを取り出せば、いつでもその時のことを思い返したり、それを使って何か自分たちも活かしたりできるというような。去年の『山形ビエンナーレ2018』では荒井良二さんのオリジナル絵本『山のヨーナ』を作りました。

 

―― なぜ、絵本なのでしょうか。

 

絵本は、自分のためだけでなく、子どもや誰かにプレゼントするために買う本ですよね。絵本は感性のふるさとでもあり、子どもが最初に出会う絵と文字の体験。絵本の持っている力というのは、今はわからないかもしれないけれど、大事と思うもの、美しいと思うもの、何かを伝えようとしています。

 

だから、その街の現状の中から絵本を立ち上げていって、それを子どもたちに伝えていくというのも、未来を大きく変えることかもしれません。次の街を作っていく世代に、震災のことも伝えないといけないし、大人たちの思う、地域の古いお話を伝わるように伝えないといけない。そういう一種のバトンのような感じで本を作っています。

 

「本のような」というのは『山形ビエンナーレ』もそうですが、どういう企画をやるにしても共通して考える部分です。

 

荒井良二さんが描いた絵本の1ページ
(画像提供:東北芸術工科大学)

 

―― お話を聞いていて、『山形ビエンナーレ』は来場した人々の人生のひとときを、ふくよかにしていると感じました。醸成されていくところはワインのようです。

 

ああ、そうですね。キッシンジャー(※)も「人はワインと同じ」と言っています。その土地、その土壌の中で、丁寧に作られ熟成して、最後にそれをみんなで飲む。でも、飲むのは一瞬でしかない。その前の労働の喜びをどれだけ地域の人とアーティストの人たちと一緒に共有できるか。そのプロセスを「面倒くさい」という人とは一緒にできないですね。

 

東北には、いわゆる“クールなアート”は少ないかもしれないけど、土地の人々が満足して生きるに足るだけの、美しいもの、おいしいもの、素敵なお祭り、伝承文化がある。むしろ都会の人よりも、自分たちが感動しなかったら興味を持たないという厳しさもあるので、愛情をもって関わり続けないと、アートは根付きにくいとも感じます。

 

※ヘンリー・キッシンジャーは、アメリカ合衆国の国際政治学者、政治家。1973年ノーベル平和賞を受賞した。

 

―― 今後はどのようなことをしていきたいと考えていますか? 

 

自分たちのライフデザイン、ライフスタイルとして家族や地域をとらえていきたい、パーソナルなところから、もう少し地域を考えていくということを、より強調してやっていきたいと思っています。奈良にいた時、僕らの場合、地域というよりも家族単位で生きていました。地域の問題は、最終的には家族の問題に集約されていく気がしています。

 

街中にあるお店の跡継ぎの問題であっても、家族の決断に対して、外の人はあまり言えない。その家族の中の“家族の在り方”というのが地域にものすごく深い影響を与えていく。だから、僕は『山形ビエンナーレ』も、震災復興のプロジェクトも、今やっている他のプロジェクトでも、軸は家族というものがあるのではと感じています。そこが壊れていくと、地域も壊れていくし、世の中も壊れていくのではないでしょうか。

 

親は親で、若者は若者なりにしんどい時代なので、そういう家族の物語に対して「デザイナーやクリエイターがどういう風にかかわっていけるかな」というのは、地域の限定性を超えて重要なテーマになっていると思います。次のビエンナーレや他の仕事にどうつなげるかはまだ分かりませんが、そういった問題意識というのは持ち続けてやっていきたいと思います。

 

―― お話をうかがい、人と地域は本当に密接に関わっていて、しかもとても繊細なのだと感じました。そこにアートがどう関われば生きやすい社会にしていけるのか。新しいスペースも生まれているという山形市内で開催される、次の『山形ビエンナーレ』も楽しみにしています。ありがとうございました。

 

 

-編集後記-

ところで、山形はどんなところなのでしょう。お話をうかがう中、宮本さんはこう話してくださいました。

 

「東北というと、雪のイメージがあるから、モノトーン、地味というイメージがあるのでは。だけど、実際には光に色が感じられるくらい。春は、今までグレーだった世界に、一気にぐわーっと芽吹いていく。空を見た時に本当にこう、山が迫ってくるくらいに色彩を感じます。日照時間が長くなると、本当に光に色がついたみたいに見えたりもする。それだけ四季の変化に富んでいるんです」。

 

一瞬、山々の豊かな光景が脳裏に浮かび、色彩溢れる光を感じました。そして、その言葉の一つ一つに、地域の中から良いところも、問題を抱えている様子も見ながら『山形ビエンナーレ』を始めとするさまざまなプロジェクトを作り上げていく道筋で育まれてきたであろう、愛おしさや誇りを感じました。

 

山形ビエンナーレで制作した「山のヨーナ」Picture Bookを手に

 

宮本武典

キュレーター、アートプロデューサー。1974年奈良県奈良市生まれ。武蔵野美術大学大学院修了。海外子女教育振興財団、武蔵野美術大学パリ賞受賞により渡仏、原美術館学芸部アシスタントを経て、2005年に東北芸術工科大学(山形市)へ。2019年3月現在、同大学教授・主任学芸員。山形を拠点に、展覧会やアートフェスのキュレーションの他、地域振興や社会貢献のためのCSRや教育プログラムを数多く手がけている。同大が主催する「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ」プログラムディレクター(2014、2016、2018)、東根市公益文化施設「まなびあテラス」芸術監督、山形県文化推進委員などを歴任

ホームページ http://takenorimiyamoto.jp/

 

取材協力:CAFE SEE MORE GLASS 

 

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