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街頭をゆく 田中泰延 橿原市紀行(2) - 今井町編

 

 

『ブラタナカ』でもよかったんですが

…みなさんお久しぶりです。田中泰延です。ひろのぶと読んでください。奈良新聞社と橿原市からのお誘いで、橿原市のさまざまな魅力を教えてもらい、いろいろ見て回って考えるというこの連載、第2回となりました。

 

前回の記事はこちらです。

 

 

全3回、お付き合いいただけると幸いです。橿原市(かしはらし)は地図上ではここにあります。

 

出典:橿原市公式HP

 

 

『街道をゆく』ではなく『街頭をゆく』。このタイトルにするのはかなりの葛藤があったのです。かの司馬遼太郎センセイへの遠慮ではなく、街をぶらついて歴史についてお話を聞いたり、調べてみたりということであれば『ブラタナカ』のほうがいいのではないかと悩みました。ですが、単にどこかの街頭に降り立ち、ぶらつくにいたしましてもやはり格調の高さという点でこの題名にしてよかったと思います。

 

江戸時代をぶらつく

今回訪れた場所は、今井町。

 

 

橿原市の中ほどの一角、東西約600m、南北約310mの地区。全建物約1500棟のうち、国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件。合計約500棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区なんです。こんなところがあるとは、知らなかった!

 

出典:かしはら探訪ナビ


そこは中世にできた町並みと建物がそのまま残る「奇跡のまち」と呼ばれているのです。

 

 

迷い込みました。江戸時代です。橿原市は前回紹介したように、市の職員さんが「紀元前660年 すべてがこの地から始まる」とプリントされたユニフォームを着ておられるぐらいです。

 

 

この場所で日本が建国されたという伝承に基づいて、2670年前からの歴史が刻まれている市ということになっておりまして、

 

 

そこに橿原神宮が創建されたぐらいですから。江戸時代なんて、もう最近の話といっても過言ではありません。

先日、くらいの勢いです。第二次世界大戦で空襲がなかった京都の人がよく言う、「この前の戦争で焼けまして。ええ、この前の戦争って、応仁の乱どすけど」というギャグ並みに最近です。ちなみに京都の人は「鳥羽・伏見の戦い」のことを忘れすぎです。そのことを京都の人に指摘するとさらに「鳥羽と伏見? そんなん京都やあらしまへんえ」と言われたことがあります。

 

今回もご一緒するのは

 

ご案内くださるのは、橿原市役所 魅力創造部 観光政策課の梅野愛さん。

 

 

ありがとうございます。梅野さんがこの今井町を歩くと、町のあちこちから「あら愛ちゃん、いらっしゃい。今日はどうしたの?」と声がかかります。

 

 

「橿原市の魅力を創造」するお仕事の第一歩は、市域のみなさんとの密接な触れ合いからなんだなぁ、と大いに感心し、そんな梅野さんの魅力を写真とともにたっぷりとお伝えするのがこの記事の使命でありまして…

 

 

 

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梅野
写真は勘弁して下さい(笑)

 

 

 

 

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田中
…そうですよね。写真は少なめにしておきます。

 

 

 

 

 

あのテレビCMのロケ地なんですね

 

さて、江戸時代さながらの今井町を歩きますと、ほうぼうで重要文化財に指定された建物に遭遇します。こちらは、旧米谷家住宅。

 

 

 

おお、この建物…

出典:かしはら探訪ナビ

 

ん? どこかで見たぞ。

 

あれかな? 有名な俳優と女優が江戸時代の夫婦の役で出演するテレビCMじゃないか?! なんだかとても古風なネーミングのあの商品のCMじゃなかったりしないか?

 

と、具体的な名前を伏せて驚くのは大変ですが、やっぱり見覚えがあります。

 

 

 

 

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そうなんです。今井町地区は江戸時代そのままの街並みが残っているので、たくさんのCMや映画、テレビドラマのロケ地に選んでいただいております。

 

 

 

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時代劇用のセットじゃなくて、本物ですもんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

旧米谷家住宅の中で、しばし時が止まったような、ひんやりと静かな時間を味わいました。

 

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ではそろそろ行きましょう。今井町のシンボルともいえる建物へご案内します。

 

 

 

 

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えっ 移動するの? 歩きたくね〜。

 

 

 

 

今井町の歴史

さて、歩きまして今井町の西の端から望みますと、

 

 

街の周囲を堀が囲っております。まるで城塞のような環濠です。いったい今井町って、どういうものなのだ。私、調べました。江戸時代前期の『大和軍記』に「今井村と申すところは兵部と申す一向坊主の取り立て申す新地にて」「四方に堀を廻し、土手を築き、内に町割を致し」とあります。これです。

 

出典:「大和軍記」(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

永禄2年(1559年)河瀬兵部丞こと河瀬権八郎兵部尉宗綱という人がこの土地「今井郷」に一向宗の念仏道場を建てたんですね。それがいまある稱念寺です。

 


そこに門徒や在郷武士が集まり寺内町が形成されて賑わい始めたと。


折しも織田信長が「市」「座」という室町時代までの閉鎖的な経済制度を廃止し、「楽市楽座」をはじめた時代。

 

そんな自由経済の発展の中で、堺とも交流を持った今井は、タイ・ルソン・カンボジアなどとも貿易し、商人の町として「海の堺 陸の今井」といわれるほど富を蓄えるようになってきた。まるでベネチアやシンガポールのような貿易立国ですね。たとえば、信長、秀吉、家康の時代を生き抜いた豪商で茶人でもあった今井宗久は、この今井の出身ですね。


戦国時代ですから金持ちの街は狙われます。盗賊や他宗派、大名などからの攻撃に備え、周囲に濠を巡らせ、町ごと武装しました。ですが、今井町は商業都市であると同時に、一向宗の寺を中心とした信徒の拠点でもあります。各地で一向一揆を倒し、天下統一を狙う織田信長軍と今井町はついに衝突します。

 

 

出典:ウィキペディア

 

天正3年(1575年)、信長の降伏勧告を拒絶した今井町住民は、筒井順慶率いる織田軍と半年間戦いました。武装といえばこの時代、堺から入ってくる新兵器、鉄砲ですね。

 

出典:ウィキペディア

 

この最新ウェポンを今井町は大量に所持していたと思われます。少し時代は下りますが 寛永14年(1637年)に島原一揆が起きた際の記録、「稱念寺念書」には「武具、兵具等所持仕候」「御鉄炮野之者」などとあり、後述する今井兵部だけでも20人程度の鉄砲衆を抱えていたことがわかります。

 


少し前の「比叡山焼き討ち」 (1571年)などで人々は信長の怖さをよく知っていたでしょう。ですが、一歩も退かず人々の生活を抱える町の周囲を固め、最新兵器で武装し、当時最強の軍隊と半年も戦争する民間人。たいしたものです。この間のできごとを描くだけで映画になりそうです。

 

 

しかし、一向宗のトップである顕如が信長と和睦したため、明智光秀のとりなしで今井町と信長軍も終戦。そのとき信長から朱印状「今井郷惣中宛赦免状」が付与されます。今井に、大坂と同様の自治権を認めたんですね。

 

 

 

 

滅ぼすどころか「敵ながらあっぱれ」と、堺のような「金のなる木」「武器の仕入れ先」として優遇されたわけです。豊臣政権下でも手厚く庇護され、河瀬兵部丞は今井姓と改姓。関ヶ原の戦いの後は幕府領となり、江戸初期のマネーヒーロー・大久保長安が代官に。

 

出典:島根県

 

筆者は、この、カネ、カネ、カネで身を立てた男、大久保長安時代にさらに今井の商業都市としての性格は強まったのではないかと考えます。

 

元禄二年の『今井町覚書』には、「市中交易繁美にして商家の都の地にひとしく、要害堅固の地なれば他方人にうらやまさらんはなかりけり」と書かれ、「大和の金は今井に七分」と言われるほどになります。「田中の体脂肪率は40%」と言われる私ですらかなわない贅の集中があったのです。

 

今西家住宅へ

さて。歴史をおさらいしたところでお濠の先を見上げますと、

 

 

パンフレットで見た立派な瓦葺きの屋根が。今井町のシンボル的な建物に違いない。

 

 

重要文化財、「今西家住宅」です。

 

中に入ると…おお、天井が高い。

 

 

この空間、柱がないんです。木造で、高さ8メートルの空間に柱がない特異な構造です。現代の建築家もよく研究に訪れるとか。

 

 

ここ「お白州」になっていたそうです。江戸時代の裁判所ですね。この2階は煙で囚人を燻したりの拷問部屋の「いぶし牢」になっていました。

 

 

今井町では、ここ今西家で独自の裁判を行なっていました。そこまでできる自治権を与えたのが、先に説明した織田信長ですね。これはもはや、ひとつの国みたいなものですね。

 

 

出典:橿原探訪ナビ

 

寛永11年(1634年)からは、今西家は独自の貨幣「今井札」も発行し、ここに造幣印刷機もありました。ほんとに、独立国家ですね。

 

また、現在立っている今西家住宅は江戸時代の慶安3年(1650年)に建てられました。そのときは幕府領ですから、二条城を思わせる建物になってまして、大阪に向かって威嚇してるんですね。城郭のような構造で「八つ棟」(やつむね)と呼ばれている建築です。

 

 

 

まさに城です。西側の顔はあたかも戦国の城。しかし北側からみると家紋が入った商人の家。それが今井の二面性を表しているんですね。

 

 

今井町は、みなさんが現在も歴史的建造物に住んでいるのがすごいですね。

 

 

今井まちなみ交流センター「華甍(はないらか)」

今井町訪問の最後に、今井まちなみ交流センター「華甍」へ。こちらは、すこしモダンな建築です。明治36年に立てられた高市郡教育博物館の建物を利用し、今井町の歴史や文化を展示しています。

 

 

ここは何といっても、

 

 

ジオラマ!!

 

 

うぉお〜! ジオラマ!! もはや言葉は不要です。今さっき歩いたばかりの江戸時代の町並みがここに。

 

 

私、すごいことに気がつきました!「カメラでジオラマをジオラマモードで撮ると、もっとジオラマに見える」。このロマン、わかるでしょうか。

 


ついさきほどまでいた「今西家住宅」も

 

 

ぐぉお〜! ジオラマ!!

 

この模型では、昭和2年の北丹後地震で倒壊した牢屋と三階倉も再現されています。

 

豆腐の自動販売機

ジオラマに熱くなりすぎた私はクールダウンのために、ふたたび今井町を歩きます。喉が渇いたので自販機で飲み物でも…

 

 

豆腐の自動販売機でした。厚揚げも買えるわ。江戸時代からあるのだろうか。

 

 

何時間歩いても発見がある、今井町はそんな場所でした。

 

 

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ではそろそろ行きましょう。橿原市が日本の首都だった時代へ、ご案内します。

 

 

 

 

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えっ 移動するの? 歩きたくね〜。

 

 

 

 

 

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歩くだけじゃありません。山登りしますよ!

 

 

 

 

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平らな山ならいいんですけどね〜

 

 

 

 

そして次回へ

 

 

 

 

『街頭をゆく 橿原市紀行(2)』は、感動の最終回、藤原宮跡と天香具山を巡る『橿原市紀行(3)』に続きます。乞うご期待ください。

 


魅力いっぱいの橿原市観光情報は「かしはら探訪ナビ」まで。

 

 

[ライター・撮影]

田中泰延(たなかひろのぶ) 1969年大阪生まれ 株式会社 電通でコピーライターとして24年間勤務ののち、2016年に退職。ライターとして活動を始める。 世界のクリエイティブニュース「街角のクリエイティブ」で連載する映画評論「田中泰延のエンタメ新党」は150万ページビューを突破。 Twitter:@hironobutnk

 

[広告主]橿原市

[編集・撮影]奈良新聞デジタル編集部

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