国原譜
大きな目を輝かせて話されるのがいつも印…
大きな目を輝かせて話されるのがいつも印象的だった。登拝に同行した吉野の山上ケ岳では、道端に立つ石碑の由来や講と呼ばれる修験者の組織について、丁寧に説明してくださった。
県立橿原考古学研究所の前所長、菅谷文則氏が亡くなった。平成28年発行の「奈良新聞70年史」に、菅谷氏の寄稿が掲載されている。
タイトルは「人生を決めた記事」。畝傍高校の学生時代、歴史クラブで活動していた菅谷氏は、大和タイムス(現奈良新聞)に掲載された1本の記事に吸い寄せられた。
桜井市のメスリ山古墳で発掘調査の手が足りず困っている、との内容だった。菅谷氏は顧問の教諭に担当者の住所を聞いてはがきを出した。しばらくして「参加するように」と返事が届き、発掘調査漬けの日々が始まった。
「私の人生を決めたのは、大和タイムスの小さい記事であったかもしれない」と書いた菅谷氏は、地方密着のニュースこそ地方紙の武器と結んだ。
それは「『昨日のサイレンは何だったのか』というような記事」と文中にある。小さな記事にも大きな力が宿ることを心したい。(増)
県立橿原考古学研究所の前所長、菅谷文則氏が亡くなった。平成28年発行の「奈良新聞70年史」に、菅谷氏の寄稿が掲載されている。
タイトルは「人生を決めた記事」。畝傍高校の学生時代、歴史クラブで活動していた菅谷氏は、大和タイムス(現奈良新聞)に掲載された1本の記事に吸い寄せられた。
桜井市のメスリ山古墳で発掘調査の手が足りず困っている、との内容だった。菅谷氏は顧問の教諭に担当者の住所を聞いてはがきを出した。しばらくして「参加するように」と返事が届き、発掘調査漬けの日々が始まった。
「私の人生を決めたのは、大和タイムスの小さい記事であったかもしれない」と書いた菅谷氏は、地方密着のニュースこそ地方紙の武器と結んだ。
それは「『昨日のサイレンは何だったのか』というような記事」と文中にある。小さな記事にも大きな力が宿ることを心したい。(増)