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【連載】奈良と富士<3>近世に広まった霊峰富士の信仰

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奈良町に残る富士講の祭壇

 古くから人々に崇められた富士山は、戦国時代に修験行者が教義としてまとめ、江戸時代には信仰する人々により「富士講」が組織された。富士講は先達や行者らが引率者となり、講の代表者が富士を参詣。江戸(東京)を中心に関東地方各地で流行し、近畿地方をはじめ全国に広まった。

 

 奈良市の旧市街地。元興寺旧境内を中心に江戸時代以降の町並みが残り、観光地として人気のある「奈良町」に、富士講が組織されたことを示すものがある。

 

 奈良町の一角、同市西木辻町の石造物群にある「奉献 冨士山」と刻まれた石碑だ。年代は天保6(1835)年。奈良市史料保存館の桑原文子さんは「富士が遠い存在としてあるのではなく、町の片隅に信仰されていた名残りがあるのが面白い」と話す。

 

奈良市西木辻町に残る天保6(1835)年の富士講の石碑(右端)

 

 奈良市瓦町の富士講で用いられてきた祭壇も伝わっている。江戸時代の「瓦町旧蔵富士講・山上講祭壇」。山上講は大峰山(奈良県天川村)を信仰する講。奈良では「大峰講」「山上講」「行者講」と呼ばれ、夏には先達に連れられて大峰山参りが行われてきた。

 

 祭壇の提灯には「冨士本講」「大峯山上」と書かれており、桑原さんは「奈良で霊峰といえば身近な大峰。富士と共通の祭壇で祭られたようです」と語る。

 

富士講と山上講の共通の祭壇として用いられた「瓦町旧蔵富士講・山上講祭壇」(奈良市史料保存館提供)

 

 祭壇の屏風には、右から三社託宣図、不動明王像、富士浅間大菩薩名号、役行者像、理源大師像の尊像や名号が掛けられている。

 

 掛け軸に像がある役行者(役小角=えんのおづぬ)は、大峰山を開山した修験道の開祖。飛鳥時代に奈良県御所市で生まれたとされる。呪術に優れ、人々を惑わしたとして伊豆大島(東京都大島町)へ流刑となったが、毎晩海上を歩いて富士山を登ったという伝説もあり、富士山修験の開祖ともされる。

 

 奈良と富士の関係は、役行者を通じても結ばれる。

 

奈良県内の富士信仰関連石造物

 奈良県内では富士信仰に関連する石造物が50基ほど確認されている。奈良町をはじめ県北東部(東山中)、県北西部、奈良盆地中南部(飛鳥地域)に多く分布しているという。

 

 石造物の年代は江戸時代から明治時代。銘文では「富士大権現」「富士山」と刻まれたものが多くある。

 

「冨士大権現」と刻まれた安永2(1773)年の石燈籠=明日香村越の許世都比古命神社

 

「冨士山」の銘文がある明治11(1878)年の自然石碑=橿原市膳夫町の三柱神社

 

 一方、石造物の中には「秋葉大権現(秋葉山)」「金毘羅大権現」「天照皇太神宮」「大峰山」などの名も一緒に見える。県内で信仰されてきた神仏と並んで富士が祭られてきた様子がうかがえる。

 

「富士大権現」などと刻まれた文化13(1816)年の石燈籠(左端)。「多賀太神宮」「三輪太神宮」「天照皇太神宮」などの石燈籠とともに並ぶ=明日香村越の許世都比古命神社境内

 

奈良からの富士登拝

 富士からは遠方にある奈良の地だが、富士講の人々は実際に富士を訪れ、登拝していたようだ。

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