【動画あり】ボクが「プロ野球志望届」を出したワケ - 奈良教育大学野球部 定道勇知
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2021年のプロ野球ドラフト会議で天理高校の達孝太が日本ハムファイターズから単独1位指名を受けたのを始め、智弁学園高校の前川右京が阪神タイガースから4位指名。智弁学園高校から大阪商業大学に進んだ福元悠真が中日ドラゴンズ6位、その福元と智弁学園でのチームメイトでホンダ鈴鹿でプレーしていた松本竜也が広島カープに5位、橿原市出身で関西大学の野口智哉がオリックスバファローズ2位と、5人の“県勢プロ野球選手”が誕生する豊作の年となった。
そのドラフト会議に先立って公表されたプロ野球志望届で、ひときわ異彩を放っていたのが『奈良教育大学 定道勇知』の名前だった。同大学はその時、近畿学生野球連盟3部に所属し、決して野球で名の知られた大学ではない。そんな環境から、なぜプロ志望届を出すに至ったのか、その真相を本人に聞いた。【有賀哲信】
目標はプロ野球選手。この春に奈良教育大学を卒業する定道勇知(22)は控えめな口調ながらも、はっきりとそう宣言した。卒業後は静岡県に本拠地を置く社会人野球のクラブチーム「焼津マリーンズ」でプレーすることが決まっている。
大学を終えても野球を続けることを決断した定道は、本来なら4回生がすでに引退してる11月中旬にもグラウンドに現れ、後輩らと練習で汗を流した。
「大学の1年目は秋のリーグで首位打者になり、ベストナインにも選ばれました」。柔軟、ダッシュなどのアップの後、ベースランニングを終えたころには、晩秋の帳はすっかり暮れ落ちていた。練習で流れた汗をぬぐいながら、定道は自らの野球人生を振り返った。
秋のリーグで頭角を顕した定道は、しかし翌年の春リーグは振るわず、その年の秋に打率を4割4分にまで戻した。4年はほとんど就職準備に充てられることを想定すると、全力で野球に打ち込めるのはあと1年。そう考えていた矢先にコロナ禍に直面し、結果的にそれが定道の野球人生を変えることになった。
野球を始めたのは小学1年生から。もともと好きだったことと兄もやっていたこともあり地元大阪府のチームに入った。最初は外野手から始めたが、有能な選手がそうであるように、やがては投手、保守、一塁手を任されるようになる。「投手として自信があった」と話す。
中学に進学すると、硬式野球をするために学校の部活ではなく、元阪神タイガースの赤星憲広がオーナーを務めるレッドスターベースボールクラブに入団。センターでレギュラーポジションを獲得し、打順は2、3番。チームではキャプテンも経験した。
レッドスターに入ったのは「高いレベルで野球をしたい」という思いがあったからだ。チームメイトには現・千葉ロッテマリーンズの安田尚憲や奈良大付高校から佛教大学に進み、同大学を10年ぶりに神宮大会に導いた木下隆也などがいるなど、実際に高レベルでの野球が経験できた。
普通なら、そこで強豪高校に進学し甲子園を目指すというのが少年野球選手として王道だが、定道はそうはしなかった。実際、レッドスターの監督推薦などで、甲子園に出場経験のある高校へ進学する道もあったが、「野球だけでなく、勉強もして人として成長したい」という思いを強く持っていた。
「甲子園が高校野球のゴールじゃない」。高校球児として甲子園にこだわりはなかった。そこで進学校ながら野球にも打ち込める環境が整う清教学園を選んだ。
同高校野球部で活動をするうち、定道は「高校などで野球部の指導者になる」という、自分の進むべき道を意識するようになった。そこで将来は教員になるべく、奈良教育大学に進学したのだった。
同大学に進学し、1年秋のリーグで好成績を残しても、「教員になって野球の指導」という将来のビジョンは崩れることはなかった。その気持ちが揺らぐことになったのがコロナ禍の直撃だった。
<コロナ禍で「野球を続けたい」思いを強くする>
全世界に蔓延した新型コロナウイルス感染症で、定道が3回生に進級する2020年の春には日本でも緊急事態宣言が発令され、夏に予定していた東京五輪がまさかの延期になるなど、誰もが予想していなかった事態に陥った。
一時は繁華街からすっかり人影が消え、経済活動も停滞したが、夏ごろからは感染対策を施しながらの日常生活が模索されるようになった。スポーツでは全国規模の大会が中止になりながらも、学校での部活が再開されたのもそのころからだった。
しかし、奈良教育大学の事情は違った。多くの学生が教育実習に行かなければならず、万が一感染者が出た場合に実習先の学校に迷惑がかかることから、感染拡大状況に関わらず4月から11月までの部活の全面禁止が早い段階から決められていたのだ。
その年の秋季リーグは無事開かれたが、9月開幕のため11月まで部活ができない奈良教育大学は当然不出場となる。定道は他大学の学生が野球する姿をテレビなどで目にするにつけ、「プレーヤーとして野球を続けたい」という思いを強くしていった。
大学卒業後も野球を続ける選択肢のひとつとして、企業チームに入るという道があるが、ほとんどの選手が3年の秋には進路を決めている。ずっと教員になるつもりでいた定道にとってはすでに手遅れだった。
そこで次なる選択肢が独立リーグになる。独立リーグのトライアウトを受けるために、「プロ志望届」を提出する必要があったのだ。
「教員は5年先でもなれるが、プレーヤーとして野球を続けられるかはここ2、3年が勝負になる」
そう決意を固め、秋に行われる独立リーグのトライアウトに向け準備を準備を進める中、ほかにも野球を続ける道がないか模索を続けた。
とはいえ、野球強豪校でもない大学ではパイプがあるわけでもなく、すべて自分で探すしかない。ネットなどで情報収集するうち、あるチームが目に止まった。
<焼津マリーンズでプレーすることを決断>
静岡県の港町、焼津市を本拠地にする同チームは、2019年創部のまだ若いチーム。地元企業6社が運営をサポートするクラブチームである。創部翌年から都市対抗野球出場に向けチャレンジを始め、翌21年には、東海地区クラブ選手権、都市対抗野球静岡第1次予選で優勝するなど頭角を現しはじめている。
定道は一目見て「面白そうなチームだ」と興味を持ち、8月上旬にトライアウトに参加した。試験ではアップに続き、ベースランニング計測。そして、キャッチボール、シートノック、シート打撃などが行われた。4日ほど後に合格の通知がきた。
プロ志望届の提出はそれより後になったが、結局、リーグ戦でコンディション不良だったこともあり、独立リーグのトライアウトは見送ることにし、焼津マリーンズでプレーすることを決断した。
2021年10月11日、プロ野球ドラフト会議の当日は、秋季リーグ戦の途中だったこともあり、「普通に練習していた」と話す定道。天理高校の達、智弁学園高校の前川など県選手の動向が注目される中、ただ自分が今すべきことを黙々と行っていた。
<やる以上、高みを目指したい>
奈良教育大学野球部は2021年度の近畿学生野球連盟3部秋季リーグで7勝1敗の成績で優勝を果たし、大阪教育大学との入れ替え戦を制して来シーズンの2部昇格を決めた。チームには定道のほか2人の4回生が残って秋季リーグを戦い、母校に大きな置き土産を残すことになった。
10月の奈良県知事杯大学・社会人野球大会は、初戦の1回戦のみ出場。そこで大学でのプレーヤー生活を終え、あとは後輩に託した。最後まで出場したい気持ちはあったが「来年2部で戦うのは彼らだから」と後輩らの経験を優先させ、スタンドで応援した。後輩たちは2回戦を勝ち進んだが、続く3回戦で立命館大学に敗れた。
定道は、春に焼津マリーンズに合流を前に、母校の練習に参加し、スピードと体力面の向上を目指し基礎練習に励んだ。
なぜプロなのか。決して無謀とはいわないものの、それまでの野球経験に照らし合わせれば、少し飛躍しすぎにも思える。その問いかけに定道は「やる以上高みを目指したいから」と即答する。
ずっと「教員になって野球の指導者に」と将来像を思い描いてきたので、迷いもあった。そこで、中途半端にならないように、自ら退路を断つ思いで「プロ入り」を目標に掲げた。親も「自分の好きなようにしなさい」とその決意を後押してくれた。「最終的に結果につながらなくても、きっと悔いを残すことはないだろう」。
プレーでは特に守備と走塁に自信を持っていた。打撃に関しては大学初年度に首位打者になるなど潜在力はあるが、特に得意だと意識することがなかった。それが昨夏、「打撃が好き」と思えるようになる経験をした。
知人の伝手で打撃指導を受けその通りにしてみると、スイングが劇的に変わったという。それまで、特に大学では指導者に教えてもらうという経験も少なく、ずっと自分なりの感覚でやってきた。それが専門的な指導を受けることで、自分でも分かるくらいの変化をもたらした。
その体験は「自分にはまだまだ伸びしろがある」という気付きにもなった。春からは焼津マリーンズで、野球の技術をさらに高めるためにさまざまな指導を受けることになるだろう。「いまは楽しみでしかない」と、新天地でスタートする野球生活に胸を膨らませる。
大卒の社会人選手は在籍2年を経過すると、プロからの指名を受けることが可能となる。ドラフト会議で「焼津マリーンズ 定道勇知」の名前を見る日が来ることを、心待ちにしたい。