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【インタビュー】奈良大教授・外岡慎一郎さん - 「鎌倉殿の13人」の見どころと当時の奈良を解説

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 今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ー。鎌倉幕府の成立と、源頼朝亡きあと北条義時を中心に合議制を敷いた13人の御家人を描いた物語で、平安時代末から鎌倉時代にかけてが注目を集めている。特集「奈良の歴史再発掘」の第1回連載「奈良に息づく義経伝説」(全10回)では頼朝の弟・源義経を取り上げたが、奈良にとっては古代に比べ馴染みが薄い同時期。日本中世史を専門とする外岡慎一郎・奈良大学教授に、当時の奈良(大和)の情勢を解説していただきながら、「鎌倉殿の13人」の見どころを聞いた。

 

 <内容>

  • 例外的な土地だった大和国
  • 二つの国が存在した側面もあった鎌倉時代
  • 源頼朝と東大寺大仏殿再建
  • 源義経を警戒した源頼朝
  • 「鎌倉殿の13人」で楽しみな北条義時めぐるストーリー 

 

 

例外的な土地だった大和国

 ――「鎌倉殿の13人」の序盤に当たる平安時代の大和は、どのような情勢だったのでしょうか

 

 北近畿と呼ばれる丹後や若狭などは、摂関政治の時代には摂政・関白が、院政期には院(法皇)が影響力をもっていました。朝廷としては、京都に近い土地は自分たちで支配したい、というかたちです。

 

 ところが大和は別格で、事実上の国主となった興福寺(奈良市)を意のままにできませんでした。摂関家の藤原氏にとって興福寺は氏寺です。本来ならコントロールできるはずです。しかしその域を超えてしまった。逆に何で言うことを聞かないんだと、興福寺が京に押しかけるくらいの状況でした。

 

 大和にも一時期、大和源氏がいました。ただ摂津源氏などは地域に拠点をつくって地域の武士たちを従えたのに対し、大和源氏は興福寺僧となって残る子孫もいたようですが、地域に入り込めなかった。大和の武士が興福寺の元に統制されていたからです。

 

 大和国(やまとのくに)は基本的に興福寺の荘園と言ってよく、筒井氏や越智氏なども興福寺の荘園を管理する荘官のような存在でした。そして、同時にそれぞれの一族も興福寺の僧となっていました。一乗院や大乗院といった派閥があるものの、総体として筒井氏や越智氏なども興福寺の配下になった。がんじがらめの体制ができ上っていたのです。よそ者が入って何とかできる世界ではないくらいの例外的な土地だったのです。

 

 ――鎌倉時代にもその流れが続いたのですね

 

 鎌倉時代にはよほど何か起きた際、臨時に守護が置かれた記録もありますが、すぐになくなります。

 

 後鳥羽上皇(1180~1239年)が北条義時(1163~1224年)追討を企図して起こした「承久の乱」(1221年)で、上皇軍は敗れます。承久の乱後、朝廷の監視と西国御家人の統率のために鎌倉幕府が京に設置した六波羅探題が、興福寺に逃げ込んだ上皇方の武士を追って奈良に向かうと、興福寺は大和国境の木津川で交渉し、逃亡者の捜索と引き渡しを条件に六波羅軍を追い返します。興福寺はそうできるだけの武力を蓄えながら、自治権を保ち続けました。六波羅探題をもってしても興福寺は手を焼く存在でした。

 

 戦国時代になってもその状態が続きます。しかし興福寺の一乗院方と大乗院方の争い、筒井氏と越智氏の争い、また応仁の乱(1467~77年)でも大和は乱れました。そして、その隙に大和に外部勢力が入ってきました。戦国武将の松永久秀(1510~77年)がその一例で、久秀が多聞山(奈良市)に城を築いたのも、興福寺を見渡すことができるからでした。

 

 

二つの国が存在した側面もあった鎌倉時代

 ――承久の乱では北条義時が後鳥羽上皇に勝利しました。その後の影響は

 

 鎌倉幕府が最終的に成立するのは承久の乱からだ、と言う専門家がいてもいいくらいの大きな意味を持ちました。

 

 もともと源頼朝(1147~99年)が鎌倉幕府を開く際、後白河法皇(1127~1192年)との間で武力は幕府が独占することを約束しました。ただし現実には荘園ごとの武力があるし、院の周辺にも「北面の武士」といわれる直属の武士がいたわけです。

 

 それが承久の乱の結果、院直属の武士が実質解体され、後鳥羽上皇にとっては手足がもがれた状態となります。もちろん上皇本人は隠岐に配流となったので、武士がいても同じですが、朝廷としての武力がなくなったのです。

 

 それまで京に僧兵がやってきた際には、かなわないものの院側も武士を出せていました。しかしそれもできなくなってしまった。そしてその代わりを務めたのが六波羅探題でした。六波羅探題は朝廷の武力として動くようになります。荘園に困ったことがあると、朝廷を通じて六波羅探題が武力をもって鎮圧する形になりました。

 

 ――鎌倉幕府と朝廷の関係は複雑ですね

 

 ええ、とても複雑です。承久の乱後、幕府は基本的に西国の騒動については、朝廷に統治権を認めるわけです。幕府と同じような(重要政務や訴訟を審議する)院評定制という制度を朝廷につくらせ、武力は六波羅探題が支えるような政治の仕組みがつくられていきます。

 

 だから実情は二つの国があるような側面も少なからずあった。複雑で面白いところですが、しかしそこが最終的に鎌倉幕府が長くもたなかった理由にもなりました。

 

源頼朝と東大寺大仏殿再建

 ――「鎌倉殿の13人」当時の奈良に関連する話では、東大寺大仏殿落慶供養に頼朝が参列しています

 

 平家による「南都焼き打ち」(1180年)で伽藍(がらん)の大半を焼失した東大寺(奈良市)は、鎌倉時代に再建されます。そして建久6(1195)年の大仏殿落慶供養は、頼朝にとって最大のパフォーマンスとなりました。

 

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