考古学

多聞天像に銘文 - 菅原寺から額安寺移管伝承を裏づけ 奈良大の調査/行基大菩薩御作菅原寺

墨書銘文が見つかった多聞天像の部材を説明する関根教授=28日、奈良市山陵町の奈良大学 拡大
修理前の多聞天像=奈良大学提供 拡大

 奈良大学(奈良市山陵町)は28日、額安寺(大和郡山市額田部寺町)に伝来した木造四天王像から、「行基大菩薩御作菅原寺」などと記された墨書銘文が見つかったと発表した。同像が奈良時代の高僧・行基(668~749年)ゆかりの菅原寺(現・喜光寺、奈良市菅原町)から額安寺へ移されたとする伝承を裏づける成果。銘文は江戸時代前期の修理時に記されたとみられ、行基への深い信仰を表す資料という。

 同大は平成17年、額安寺から四天王像を譲り受け、文学部文化財学科の関根俊一教授らが26年から解体修理と調査を実施。本年度に修理中の多聞天像では、右腰部材の裏側に「行基大菩薩御作菅原寺」と書かれるなど6カ所で銘文が見つかった。

 また既に調査が終わった3体うち広目天像の背面上部材にも「行御作菅原寺 大小廿(二十)八之内」の銘文があった。

 四天王像はいずれも像高約160センチで、ヒノキ材などの寄木造り。材質や技法などから平安時代末から鎌倉時代前期に制作されたとみられる。

 戦前に出版された仏教考古学者の石田茂作の著書に、四天王像が菅原寺(喜光寺)から移されたとされると記述。喜光寺に残る古文書にも江戸時代前期の享保15(1730)年に四天王像などを修理した記録があり、銘文はそのときに記されたと考えられる。

 菅原寺は奈良時代に社会基盤整備や弱者救済に尽くした行基の終焉(しゅうえん)の地。四天王像は制作年代などから行基が作ったとは考えられないが、ゆかりの深い同寺に伝わったことで、「行基作」の伝承が生まれたとみられる。明治維新の神仏分離令で菅原寺が衰退した際、額安寺に移されたと推定される。

 関根教授は「四天王像は細部にわたる丁寧な修理を数度にわたって施している。行基への深い信仰に支えられて大切に残されてきたのだろう」としている。

 奈良大は9月に完成予定の「50周年記念館」で四天王像の公開を予定している。

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