考古学
山中に石蔵寺宝塔院跡か - 吉野山南部遺跡群を測量
山岳信仰で栄えた吉野山南部遺跡群(吉野町)を県立橿原考古学研究所の橋本裕行総括研究員らが測量調査した。山中に残る平地が広大で、採取される土器の年代などから、記録に残る白河天皇(1053~1129年)の石蔵寺宝塔院が営まれた可能性が強まった。
吉野水分神社から金峯神社に続く尾根沿いで、大小の平地が点在。橋本さんらは平成17年から一帯を測量し、このほど報告書がまとまった。
白河天皇は11世紀後半に宝塔の建立を発願し、自らも行幸。藤原道長(966~1027年)が「その寺はなはだ美なり」と書き残した金照坊も石蔵寺子院の一つとみられている。
測量の結果、宝塔院跡とされる上岩倉地区最大の平地は2070平方メートル、金照坊地区の平地も1200平方メートル以上と分かった。周辺の斜面に大量の土器が落ちており、11世紀後半~12世紀前半の形式が中心だった。
上岩倉地区には基壇状の高まりもあり、石蔵寺宝塔院跡とみてほぼ間違いないという。
金照坊地区の土器もほぼ同時期で、金剛・葛城山系を一望する絶景の地。道長が書き残したイメージと重なる。
明治時代まで吉野山の奥の院として栄えた安禅寺蔵王堂跡でも約1000平方メートルだった。
橋本さんは「測量で立地や規模を確定できた。一帯には大規模な遺跡群が良好な状態で残っており、世界遺産に追加登録して保存する必要があるだろう」と話している。
白河天皇は譲位後に院政を始めたことで知られ、「北面武士」を創設して源氏武士団を吸収。仏法信仰が厚く、多数の寺や仏像を造らせた。
藤原道長は天皇の外戚として栄華を極め、山上ケ岳に参拝の帰路、金照坊に立ち寄っている。
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