漢方診療日記

第44回 「一切智」知ってもうことは安心 - 愛情、慈悲につながる

先日、北鎌倉の臨済宗円覚寺管長・横田南嶺老師と対談した。孤独死がなぜ嫌なのか、の話をしたのだ。その時に、一見関係のない「知る」ということについて、考えさせられた。


子どもの頃から受験勉強をしたり、医師国家試験を受けたり、専門医の資格を取ったり、論文を書いたりと、私は今まで知識を集めることを熱心に行ってきた。それはどこか、後ろめたいというか、下世話というか、競争心を煽(あお)られるというか、優劣の話に近いと思っていた。


医者の中でも、専門医の資格を持っている者は、そうでない者より勉強している―などとつい考えてしまう。


でも、老師は、知ることは愛に繋(つな)がるというのだ。知という響きに下世話なイメージを持っていた私は、年をとって文字にできる「形式知」より、文字化できない「暗黙知」を大切にするようになった。


また、東洋医学を学ぶうちに、気功などを通じ「気」を感じる、雰囲気を掴(つか)む―なども大切にしてきた。


しかし、知ることが愛情、慈悲に繋がることとは、思いもよらなかった。孤独死が怖いのは、誰にも知られずに一人で亡くなるからだろう。医者や看護師など医療従事者が、「もしもの時のために、そばに居て欲しい」というのではない。自分が死んでいくところを傍で知っていてほしい」と感じるのが人である。「病院で死にたい」と言っているわけではない。「自分のことを知ってもらっている」という安心はあるのだろう。

 

最近、自分の日常生活や食べた物などを逐一、世間に知らせるブログが流行(はや)っている。また、自分がその時に思ったことを、呟(つぶや)くツイッターをする心理は、そういうものかもしれない。他人に知ってもらうと安心する。


老師によると仏教には、「一切智に帰依(きえ)する」とう考え方があるという。「一切智」とは、全てを知っている存在だ。自分の恥ずかしいことから生まれる前から、死んだあと、どれだけ苦しいか―など、自分のことから宇宙の始まりまで、時間軸、次元を超えた一切の情報を知っている存在だ。書いて伝えることのできる知識だけではない。


老師は私に言った。「人に知ってもらうことで、人は安心する。さらに、人以外の大きな存在、それは仏と言っても良いし、神といっても良い。でも、その存在が全てを知ってくれていると感じることができれば、孤独であっても、もちろん、孤独死の渦中でも安心がある」と。


私には分からない境地だが、話を聞いてみて何となく想像はできた。


相手を知ることが優しさに繋がるように、私自身の修練が必要だ、と感じた。

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