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第三部 飛鳥を伝える

佐藤首相に声の直訴状 保存運動の芽生え〔3〕

 村民会議が開かれた昭和45年は、明日香の保存問題を考える上で大きな節目となった。末永雅雄・県立橿原考古学研究所長を会長とする「飛鳥古京を守る会」が3月に発足、5月に村民会議があり、6月には佐藤栄作首相が村内を視察した。そして12月、「飛鳥地方における歴史的風土、および文化財の保存等に関する方策について」が閣議決定された。この間、忘れてはならない人物がいる。佐藤首相に「声の直訴状」を送った御井敬三氏。同氏がいなければ国の保存対策はさらに遅れたといわれる。


【飛鳥村塾の開設】

 和歌山県出身の御井氏は小学校を卒業する頃から視力が低下、盲学校を経て漢方医の道を歩んだ。終戦後、大阪市南区に研究所を兼ねた診療所を開設、初めて明日香を訪れたのは昭和42年のことだった。古代の息吹きと豊かな自然に魅せられた御井氏は飛鳥坐神社の近くに小屋を借り、週末をそこで過ごすようになった。

 当時村議だった今西政雄氏は、たびたび御井氏の訪問を受けた。「人の心を1から10まで察する人だった。『明日香には心の病を直すすべてがある。芋峠の空気は全国1』といつも言っておられた」

 芋峠は明日香村と吉野を結ぶ古道の峠。そこへ続く同村栢森の集落に、御井氏は「飛鳥村塾」を開設した。集落の入り口にある広大な旧家を無料で借り受け、塾長に就任。自然の「気」が感じられる栢森の地で、人の心や自然との一致を説いた。

 御井氏の診療を受けていた松下幸之助・松下電器会長は「和」と書いた直筆の書を寄贈したほか、施設面でも協力した。村外から学生や企業の社員が次々と訪れ、御井氏の話に耳を傾けたという。旧家は今も栢森の集落に残っており、「旧飛鳥村塾」と書いた表札が挙げられている。

 飛鳥村塾に開設からかかわった今西氏には、今も鮮烈によみがえる思い出がある。昭和45年のある日、御井氏から「学生が20人ほど来るので講師を引き受けてほしい」と頼まれた。当日、今西氏が講義に入ると全員が正座。1時間たっても2時間たってもそのままだった。彼らは2日間の講義をすべて正座で通した。

 それから1カ月ほどたったころ、作家、三島由紀夫の割腹自殺が報じられた。介錯した25歳の青年の名は、明日香村塾で2日間を過ごした学生たちの芳名禄に記されていた。今西氏は「関西学生同盟と名乗っていたが、全員『盾の会』の隊員としか考えられない」という。「盾の会」は三島由紀夫をリーダーに結成された私兵集団。明日香の景観に日本の精神文化を感じる人々も多かった。


明日香保存をめぐる昭和45年の動き
3/7 「飛鳥古京を守る会」設立総会
4/5 飛鳥村塾が開設される
5/24 村民会議開催
6/28 佐藤栄作首相が村内を視察
7/16 総理府で歴史的風土審議会開催。専門委員に岸下利一村長
9/11 歴史的風土審議会が飛鳥地域の保存 について答申
12/18 「飛鳥地方における歴史的風土、および文化財の保存等に関する方策について」を閣議決定

【声の直訴状】

 同じ年の1月、御井氏は妻の清子さんに代筆を頼み、佐藤首相に手紙を書いた。「いかなる国の民族も、それぞれの国がもつ文化遺跡を高く評価するものです。そして、これを誇り、これを愛し、この国の名において、実際に大切に保存しています。それにもかかわらず、わが国ではこの大切な飛鳥古京を保存し、これを愛し、これを活かす精神と体制は非常に遅れています。一体これは、いかなることなのでしょうか。日本民族のふるさとともいうべき明日香の自然と風物、世界に誇るべき貴重な史跡は、どんなことがあっても守らなければなりませんー」。こう述べた上で、村民の生活保障を含めた「建設的な処置」を求めた。

 手紙を託された松下幸之助氏は全文テープに吹き込むことを提案。こうして「声の直訴状」が生まれた。松下氏との懇談会でテープを聞かされた佐藤首相は「知らなかった。これでは総理とは言えんな」と言ったという。村内を視察する3カ月前のことだった。

 そして6月、甘樫丘に立った佐藤首相は同行した御井氏に握手を求め、声をかけた。「ありがとう。あなたのおかげで明日香に来ることができました。長生きしてください」。

 当時の岸下利一村長には「身近に寄せる開発の波にもめげず、明日香村民の皆さんはよくこれまで辛抱し、保存してくれました」と礼を述べたという。国の施策としての明日香保存はこうして動き出した。

 御井氏はそれから1年あまり後、心臓発作でこの世を去る。53歳だった。「人は心」を信条とした御井氏を「敬服に値する人物」と振り返る今西氏は「明日香は小さい村だが、日本の心を残す気持ちで保存に取り組む必要がある」と強調する。

 高松塚古墳の発掘は、御井氏の死から半年ほど後。村議会議長を務めていた今西氏は、文化庁長官の発言をめぐって紛糾した村議会の収拾に奔走することになる。

 明日香保存に向けた国の施策がスタートする中、昭和46年4月には飛鳥保存財団が設立された。国や地元だけでなく、民間レベルでも保存への取り組みがスタートしたことになる。初代理事長には松下幸之助氏が就任した。

 以後、松下氏はさまざまな形で明日香と関わることになる。昭和49年には脇本熊治郎・初代村長とともに初の「名誉村民」となった。

 昭和59年から村長を務めた杉平正治氏(80)は、こんな出来事を覚えている。村の中央公民館を建設するため、松下氏に「寄付金を出してもらえないか」と要望した。300万円程度の金額を見込んでいたが、秘書が届けた小切手の金額は3000万円。公民館の建設費は約1億円で、実に3分の1にあたる金額だった。舞台のどんちょうを寄贈したのも松下氏だった。


 飛鳥保存財団

 高松塚壁画館や近鉄飛鳥駅前の総合案内所を経営する一方、村内の無住社寺やかやぶき屋根の修復助成、シンポジウムの開催、季刊誌「明日香風」の発行などに取り組んでいる。現在の理事長は上山善紀・近鉄相談役。役員と評議員には、政・財界人のほか、考古学や古代史の研究者も多数名を連ねている。


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