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第三部 飛鳥を伝える

村民が保存問題を議論 保存運動の芽生え〔2〕

 初代村長を務めた故脇本熊治郎氏は、史跡観光課を設置して観光客の誘致に力を入れる一方、村内の若者のために「青年学級」を開設した。古代の都だった郷土の歴史について、より詳しく知ってもらうのが目的だった。ここから多くの人材が育ち、村民の意識形成の核となっていった。村民会議を主催した「明日香史跡研究会」もその延長線上に生まれた。


旧高市小学校講堂
昭和45年に村民会議が開かれた旧高市小学校講堂。
今も村民劇団の練習などに使われている


【明史研の誕生】

 明日香史跡研究会(明史研)が発足したのは、村民会議が開かれる1年ほど前、昭和44年4月のことだった。「当時のメンバーは約30人。25歳ぐらいまでの青年が中心だったが、中学生も参加していた」。初代会長を務めた福井清康氏は振り返る。

 研究部とガイド部を設け、会則も作った。会の目的には「明日香の特殊性を知り、現状を認識し、その調和ある発展を目指すものである」とうたった。年齢に関係なく、目的に賛同する村民であれば誰でも加入できた。週1回は村観光会館の2階で勉強会を開催。龍谷大学の講師だった網干善教氏(現関西大学名誉教授)や村出身の歌人、辰己利文氏が講師を務めていた。

 当時、村内は観光案内板が未整備で、山の間伐材を切り出して道標や案内板を設置。事務局は村役場の1室を借り、新設の史跡観光課と協力して観光客のガイドにあたった。石舞台古墳の近くでは、当時のメンバーがお金を出し合って植えた桜の木が、今も美しい花を咲かせている。

 若者たちの盛り上がりとは裏腹に、村境に近い橿原市の五条野町周辺では住宅開発が始まっていた。現場の様子を写真に撮り、村の文化祭で展示したこともある。福井氏は「そういう活動を通じて明日香の保存という問題が少しずつクローズアップされてきた。今の村民は保存問題に無関心で危機感が薄い。小・中学校の文化財教育にもっと力を入れ、誇るべき財産が村内にあることを教えるべきだと思う。保存運動が始まったころの原点に帰る時がきている」と話す。

 明史研の発足から2年目に発刊された会報「賀夜奈流美(かやなるみ)」。飛鳥川の上流に祭られた水の神・賀夜奈流美命が名付け親となった創刊号に、福井氏は「明史研と共に」と題した文章を寄せた。「明日香は実に素晴らしい所である。それは日本、いや世界の人々に自信を持って誇り得るものである。私は生涯、この里を離れることはないだろう。たとえ離れたとしても、明日香に生まれた喜びと誇りだけはなくす事はないと思う」。


【村民会議】

 明日香村が古都保存法の適用(昭和41年7月)を受け、保存問題が関心を集めるようになると、学識者の間で「東側の山にモノレールを造って村全体を眺められるようにしては」「村境に関所を設けて入村料をとってはどうか」などの意見が出始めた。

 「住民は動物園のサルではないー」。彼らの意見は生活者である村民の反発を招いた。自分たちの関知しないところで保存問題が議論されることへの不安もあった。「保存に向けた時代の流れがあまりにも急テンポだった。必要性は理解できても将来の生活がある。意識を同じレベルに上げるためにも、フェアな立場で発言できる機会が必要だった」。村民会議の趣旨を福井氏はそのように説明する。

 開催は昭和45年5月。高市小学校の講堂に約200人の村民が集まった。このうち13人が▽村の現状と将来▽開発と保存のあり方などについて意見を述べ、会場全体で討論が行われた。開催翌日の大和タイムス(奈良新聞の前身)は、1面トップで会議の模様を報じている。

 当時の記事によると、開発賛成派と保存を強調する人々の対立が表面化、地域ごとの利害がむき出しになったという。

 紙面には発言の要旨も紹介された。「飛鳥問題は学者-マスコミ-政治家と回されてきた。肝心の村民の主体性が失われている。明日香は我われの故郷。他からゆり動かされて浮き草のようであってはならない」「観光客は村とは無縁の人々。我われは社会と合わせて発展していく権利がある。保存を犠牲にしても開発すべき」「宿命だというだけで社会から取り残されては困る。村民に安住の地を与えてほしいー」。どの声も真剣で切実だった。入村料構想は「学者のバカ話」と一蹴された。

 明史研はこの会議の議事録を村内の各戸に配布。2回目の村民会議は総代会が主催することになり、第3回まで開かれた。福井氏は「村民が保存問題を考える火付け役となり、先駆的な役目を果たすことができた」と評価している。

 開催までには思わぬ苦労もあった。村議の一部が「住民の代表で構成される議会をないがしろにしている」と反発。役場に呼びつけられた福井氏は「会議は村民1人ひとりの意見を知る場。村議の方々にも聞いてほしい」と説得し、「決議はしない」ことを条件に了解を得た。明史研を政治団体のようにとらえる人たちもいた。

 高松塚壁画館の学芸員、篁園勝男氏も明研史を支えたメンバーの1人。「今の若い人には自分たちの明日香村という意識がない。保存は外部団体がやってくれるものと思っている。地元から情報発信しないと村の施策も生きてこない」。変わりない景観が維持されてきた明日香村だが、保存運動の黎明期を担った村民たちは、将来への危機感を強めている。


 明日香村長期保存開発構想案

 村民会議の翌月、当時の岸下利一村長が発表した。村内の史跡や景観について「国の責任において積極的に守る時期を迎えている」とし、「7000人住民の将来への希望と夢が犠牲にされないよう十分な配慮が必要」と強調した。
 具体的な「保存計画」としては(1)史跡地や保存規制区域の原則国費買い上げ(2)飛鳥宮跡の一部復元計画を推進(3)歴史教育センターや万葉図書館の整備―などを提示。一方で、(1)道路網の整備(2)中小企業の振興対策(3)規制地域内の固定資産税の減免・・制を受けている住民の住宅対策など、村民生活への配慮を示した。
 昭和55年に施行された明日香村特別措置法には、固定資産税の減免措置や建築物のデザイン規制に対する助成措置が盛り込まれている。


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