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第三部 飛鳥を伝える

開発の波から飛鳥守れ 保存運動の芽生え〔1〕

 昭和45年5月、石舞台古墳近くにあった明日香村立高市小学校の講堂は、200人近い村民の熱気に包まれた。地元の青年グループが主催した「明日香村民会議」。国が明日香保存へと急速に動き始める中、生活者である村民自身の声を掘り起こすのが目的だった。出席者からは「開発エリアと保存エリアをきっちり分けてほしい」「文化財の研究機関を誘致できないか」などの声が上がったという。それから1カ月後、佐藤栄作首相(当時)が甘樫丘に立った。明日香保存が政府の重点施策となった瞬間だった。


甘樫丘から橿原方面を望む
甘樫丘から橿原方面を望む。
住宅開発の波はすぐそこまで迫っていた


【古都保存法の適用】

  みけむかふ

    南淵山のいはほには

       降れるはだれか

          消え残りたる


 石舞台古墳を望む駐車場に、柿本人麻呂の万葉歌碑がある。初代村長、脇本熊治郎氏の業績をたたえて昭和44年に建立された。明日香村に古都保存法が適用されたのは、同氏が最後の任期を迎えていた昭和41年7月のことだった。

 古都保存法の定義は「わが国往時の政治文化の中心等として、歴史的に重要な地位を有する」こと。明日香村は「政令で定めるその他市町村」の一つとして、村内全域が同法の適用を受けた。

 脇本村政は昭和31年から同43年までの12年間。引退後、「飛鳥遺跡の保存顕彰に多大の貢献をされた」として文化庁から感謝状が贈られた。

 その年の年頭、脇本氏は重点的に取り組んだ事業として次の5つを挙げている。(1)小学校の講堂の改築(2)小・中学校のプールの新設(3)役場庁舎の建設(4)道路補修の実施(5)観光史跡の開発-。法の制限なく村政を進めることができた最後の村長でもあった。

 古都保存法適用の年、第5代村長となる杉平正治氏は、新設された史跡観光課の課長を命じられた。「それまでの仕事は道路の建設。史跡は素人だったが、『特命で課長にするから勉強せよ』と村長に言われた」と振り返る。

 当時の明日香観光は石舞台古墳と飛鳥寺がメーン。「高松塚のようなものが出るとは夢にも思わなかった」。観光客のために地図やリーフレットを作り、各地の中学校を回って修学旅行の誘致を働きかけた。

 杉平氏が今もはっきり覚えている村長の言葉がある。「明日香は農業立村。農業が死んだら村もなくなる。最後の一村になっても明日香を残したい」。観光施策に力を入れる一方、脇本氏が目指した明日香は農業立村だった。農村景観を維持して史跡を知ってもらえば観光は後からついてくる-。この考えは21世紀の明日香にも受け継がれている。

 ただ、脇本氏自身が「観光史跡の開発」という言葉を使ったように、当時の村民意識は凍結的保存とはかけ離れた所にあった。村史はこの時期を総括して次のように述べている。「前年指定された古都保存も都市計画も、全く村民にとっては遠い夢で、ただ、ところどころに『歴史的風土保存地区』の標識の立った、観光客の多い平凡な村であった」。

 昭和44年、史跡の保存をテーマに村民アンケートが実施された。最も要望が強かったのは「道路整備」で、「自然公園」が三番、「農業観光」は4番目。観光客に田畑を踏み荒らされるなど、将来に不安を感じ始めていた村民のジレンマがうかがえる。


【迫る開発の波】

 村民意識にかかわりなく、宅地開発の波は「平凡な村」のすぐそこまで押し寄せていた。隣接する橿原市で橿原ニュータウンの建設が始まったのは昭和42年。甘樫丘に近い孝元天皇陵の周囲も、真新しい住宅地に姿を変えた。

 昭和35年に約5万人だった橿原市の人口は、同40年に約5万7000人、同45年には約7万5000人と飛躍的に増加。この勢いはその後も衰えず、同55年に早くも10万人を突破した。

 明日香村境に近い近鉄橿原神宮駅周辺は、大阪への通勤者にとって絶好のベッドタウン。開発業者が農地を次々と宅地に変えた結果、市内の景観は一変した。

 杉平氏は「甘樫丘を切り開けばかなりの宅地ができたはず。開発を求める声があったのも事実で、保存運動が本格化しなければそっくり住宅地になった可能性もある」と話す。

 甘樫丘は蘇我蝦夷・入鹿親子が屋敷を置いた場所。古代の飛鳥地域を考える上で欠くことのできない歴史を秘めている。

 このような状況を見かね末永雅雄・県立橿原考古学研究所長を会長とする「飛鳥古京を守る会」が昭和44年発足。その動きは政界にも波及し、同年5月に「飛鳥古京を守る議員連盟」が立ち上げられた。構成メンバーは170人の自民党議員だった。

 開発に対する村民の意識は、高齢者ほど「やむを得ない」という部分が強く、保存への動きは若者の間で急速に高まっていったという。青年団のメンバーが中心となって昭和44年に発足した「明日香史跡研究会」は、その中でも中心的な役割を果たしていた。村内の観光標識を整備したり、村民会議を主催したのも彼らだった。


 飛鳥古京を守る会

 会長は末永雅雄・橿考研所長。副会長には万葉学者の犬養孝氏と明日香村出身の歌人、辰己利文氏が就任した。設立の趣意書は「うねめの袖吹きかえす明日香風 都を遠みいたずらに吹く」の万葉歌を引用。「何の対策もなしに放置すれば貴重な遺跡・風土が永久にこの世から姿を消してしまう」と警鐘を鳴らした。甘樫丘では、犬養氏が筆をとったこの歌の歌碑が、今も明日香を見守っている。これが引き金となって「飛鳥古京を守る議員連盟」が発足。橋本登美三郎運輸大臣が会長に就いた。この前後から中央官庁幹部や国会議員の明日香視察が相次ぎ、受け入れる村側は多忙を極めたという。


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