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 第二部 被葬者の迷宮

続く「被葬者の謎解き」 被葬者論の総括

 高松塚古墳の被葬者は誰か-。これまで16回にわたって紹介してきた被葬者論は、大きく三つに分かれそうだ。(1)皇族クラス(2)高級官僚(3)渡来系の王族。発掘から30年。仮に墳丘部の再調査が行われたとしても、論争が推定の域を出ることはないだろう。ただ、来年から始まるキトラ古墳の発掘調査が、高松塚古墳の被葬者論議を再燃させることは間違いない。これまで紹介した研究者の見解を整理して迷宮を出ることにしたい。


高松塚古墳の石槨
棺が納められていた高松塚古墳の石槨。そこに迷宮への入り口がある
(中間報告書『壁画古墳高松塚』から)


【天武の皇子説】

 日本に律令国家の基礎を築いた天武天皇には、10人の皇子がいた。このうち、主な被葬者候補となるのは、大宝律令の編集を進めた忍壁皇子、古代最大の内乱といわれる「壬申の乱」(672年)で活躍した高市皇子、そして万葉集に多くの歌を残す弓削皇子。

 忍壁皇子説をとる研究者には、直木孝次郎・大阪市立大学名誉教授、猪熊兼勝・京都橘女子大学教授、中国社会科学院考古研究所の王仲珠氏らがいる。出土人骨の推定年齢が「熟年以上の男性」と鑑定されたこと、人物像の服装などがその根拠。忍壁皇子は46、7歳でこの世を去った。

 一方、文武3(699)年に没した弓削皇子を候補に挙げたのは、菅谷文則・滋賀県立大学教授と梅原猛・国際日本文化研究センター顧問。ポイントは火葬の普及で、持統天皇の火葬(703年)以降、皇族クラスの人物は火葬を選んだ可能性が強いと考える。梅原氏は高松塚古墳の埋葬方法を異常とし、怨霊の塚説を展開した。

 高市皇子説は福岡県出身の考古学者、故原田大六氏。河上邦彦・県立橿原考古学研究所副所長も、藤原京の南西に「天武の陵園」が営まれたとして、その皇子・皇女が被葬者とする。和田萃・京都教育大学教授は、大友皇子と十市皇女の間に生まれた葛野王(かどのおう)が候補者の一人であることを指摘した。


【高級官僚説】

 岡本健一・京都学園大学教授と白石太一郎・国立歴史民俗博物館教授が挙げる被葬者候補は、竹取物語にも登場する左大臣石上麻呂。没年は平城遷都後の717年で、高松塚古墳は奈良時代の古墳だったことになる。

 「7世紀末~8世紀初め」とされる築造時期の問題にも絡むが、石上麻呂が藤原京の留守司だったことを考慮すれば、なじみ深い都の近くに葬られたこともうなづける。


【渡来系の王族説】

 同盟国の百済から人質として日本に送られた百済王禅光(善光)こそ被葬者ととするのは、千田稔・国際日本文化研究センター教授。四神などの壁画が「宇宙王」の象徴とし、百済王家と強いつながりのあった天皇家が、故国を離れて死んだ皇子のために高松塚古墳を築いたという。禅広の子孫は、百済王氏として日本に定着、有能な官人を多数輩出した。

 堀田啓一・高野山大学教授は、668年に滅亡した高句麗の王族クラスも被葬者候補とする。


【永遠の迷宮】

 飛鳥地域に点在する古墳の中で、被葬者が特定できるのは天武・持統合葬陵(大内陵)だけといわれる。石室内の様子を記した文献記録、八角形の墳丘、そして藤原京の中軸線(聖なるライン)にピタリと重なる立地条件。さまざまな要素が天武と持統を指し示す。

 しかし、これは極めて特異なケース。高松塚古墳に関する限り、完全な被葬者論など存在しない。いずれの説にも推定の濃い部分があり、強く突けば崩れてしまう。しかし、被葬者への果敢なアプローチが、多くの古代史ファンを生んだことは間違いない。謎解きの過程が事実に基づくからで、結論の違いは、材料や積み上げ方の違いに過ぎない。「被葬者の迷宮」は、これからも多くの人々を受け入れるだろう。


本連載で紹介した被葬者論一覧
研究者名
被葬者候補
主な理由
直木孝次郎氏
忍壁皇子
人物像の服装や立地から考えられる条件は(1)686年から710年(または701年から719年)に死んだ人物(2)大納言以上で天皇かその近親者の可能性が強い(3)熟年男性-の3つ。忍壁皇子はすべての条件を満たしている
王仲珠氏
忍壁皇子
高松塚の海獣葡萄鏡は中国・陝西省の独孤思貞墓で出土した海獣葡萄鏡(7世紀末)と同笵(どうはん)関係にあり、704年帰国の遣唐使によってもたらされた可能性が強い。7世紀に死んだ皇子たちはこの鏡を副葬できず、忍壁皇子だけが被葬者になりえる
猪熊兼勝氏
忍壁皇子
四神図や星宿は皇族の独占物だった。高松塚の壁画が描けるのは天武直系の皇子しかいない。「聖なるライン」は北で天智陵を結び、天子の象徴である北斗七星を表したのではないか。人骨の鑑定年齢からも忍壁皇子がふさわしい
菅谷文則氏
弓削皇子
忍壁皇子を含め、持統天皇以後の皇族たちは火葬された可能性が強い。弓削皇子が没した699年は持統の火葬以前。出土した須恵器からも藤原遷都(694年)直後の古墳といえる。平城京に移ってからの帰葬は反逆行為
梅原猛氏
弓削皇子
頭蓋骨を取り除いて壁画を傷つけたのは怨霊(おんりょう)の復活を恐れたため。被葬者の条件は(1)天皇、皇太子、親王など極めて身分の高い人物(2)築造年代は710年以前(3)反逆の皇子-の3つ。忍壁皇子は謀反罪で処刑されたと推定され、これらの条件を満たす
原田大六氏
(故人)
高市皇子
高松塚古墳壁画の素材はすべて九州の装飾古墳にある。高市皇子の母親は九州出身の尼子娘。藤原京朱雀大路の延長上にある立地条件からも天武天皇との関係が考えられる。男子像は壮年が中心で、高市皇子の死亡年齢と一致している
和田萃氏
葛野王
文武天皇が葬られた「安古」と十市皇女が眠る「赤穂」は同じ地域。中尾山古墳が真の文武陵とすれば、その一帯が「安古」「赤穂」だったと考えられる。すぐ隣りの高松塚古墳には、大友皇子と十市皇女の間に生まれた葛野王が葬られた可能性がある
河上邦彦氏
天武の皇子
・皇女
「聖なるライン」を東限として想定できる墓域は岸説の藤原京とほぼ同じ大きさ。これが天武の陵園で、そこに築かれた高松塚古墳には、天武の皇子・皇女が葬られた可能性が強い。藤原京の南西に「死者の都」が形成されていたのはないか
岡本健一氏
石上麻呂
男子像にさしかけられた深緑の蓋(きぬがさ)は被葬者が一位の人物であることを示している。石上麻呂は没後に従一位を追贈された。藤原京の留守司を務めたので飛鳥に葬られたのだろう。78歳という没年も「熟年以上」の鑑定結果に矛盾しない
白石太一郎氏
石上麻呂
壁画は被葬者の威儀を示しており、深緑の蓋も被葬者にさしかけたと考えるべき。左大臣・石上麻呂を輩出した物部氏が、その喜びと一位の格式を表すために壁画を描かせた。出土した大刀は正倉院に伝わる金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうからたち)と同じ形式で、奈良時代の古墳と考えられる
千田稔氏
百済王禅光
四神や星宿が描かれた壁画古墳は「宇宙王」の墓。舒明天皇が百済宮や百済大寺を造営したように、天皇家には百済に大変な親近感を持っていた。人質のまま故国を失った百済王禅広のために、百済の伝統に基づく古墳を造ったのではないか
堀田啓一氏
高句麗の王族
高松塚には高句麗の古墳に描かれた画題が統合されている。高句麗の滅亡は668年で、亡命してきた高句麗の王族クラスを被葬者と考えることもできる

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