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第二部 被葬者の迷宮

「飛鳥」を開いた東漢氏 渡米人への視線〔5〕

 高松塚古墳が造営された古代の桧隈(ひのくま=明日香村桧前周辺)には、遅くとも五世紀から渡来人が暮らし、飛鳥前史を築き始めていた。そして、建築や土木工事、金属生産などに持ち前の技術を発揮、飛鳥の都市景観を形成していく。蘇我氏の台頭に合わせて政治の舞台にも登場した。渡来系の人物を被葬者と考える場合、彼らが果たした役割に目を向けておく必要があるだろう。


焼けた建築部材
中大兄皇子のクーデターで、蘇我蝦夷は屋敷に火を放って自害。
屋敷には東漢氏もはせ参じていた。平成6年、甘樫丘のふもとで
焼けた建築部材や壁土が出土、蝦夷邸かと関心を集めた
(平成6年12月、奈文研飛鳥藤原宮跡発掘調査部)


【東漢氏の先祖伝承】

 朝鮮半島の人たちが日本に渡ったのはいつごろだろう。『日本書紀』の応神天皇20年条に、東漢氏(やまとのあやうじ)の先祖伝承が記されている。「倭漢直(やまとのあやのあたい)の先祖、阿知使主(あちのおみ)が子の都加使主(つかのおみ)と17県の人々を率いてやってきた-」。東漢氏は渡来系氏族の筆頭格。『続日本紀』では、これらの人々が詔(みことのり)によって桧隈の地を賜ったと伝える。

 二つの記事に共通するのは、応神天皇の時代に多数の渡来人がやってきたこと。4世紀末~5世紀初めに実在したといわれる天皇だが、都加使主は雄略朝(456~479年)の人物とみられることから、書紀の記述をうのみにすることはできない。

 ただ、応神紀に渡来人に関する記事が多いのは事実。雄略紀も同じで、同7年条に見える「新漢(いまきのあや)」は、新しく来た渡来人を指すとされる。東漢氏ら先住の渡来人に対する呼称と考えられ、5世紀後半の雄略朝以前にも、多くの渡来人が生活していたことは確かなようだ。

 雄略紀は、新漢である陶部高貴(すえつくりのこうくい)らを上桃原、下桃原、真神原の3カ所に住まわせたと伝える。それを手配したのは東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)。都加使主にあたるとされる人物だった。

 門脇禎二・京都橘女子大学教授(古代史)は「東漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族。最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったのだろう。先に渡来した人物が次の渡来人を引き立てる場合もあったはず」とみる。絶大な権力を誇った蘇我氏も、百済から渡来した高級官人、木満致(もくまんち)から起こったとするのが門脇氏の考えだ。

 「政界に進出する渡来人もおり、その筆頭が蘇我氏。稲目の時代までは大和朝廷の中堅官僚として財政や軍事に奔走していた」。南北朝時代に諸氏の家系図をまとめた『尊卑分脈』によると、稲目以前の3代は、満智(まち)、韓子(からこ)、高麗(こま)と朝鮮系の名前が続く。

 大化元(645)年に起こった「乙巳(いっし)の変」(大化の改新)で、蘇我蝦夷邸に馳せ参じたのも東漢氏だった。クーデターは蝦夷の自殺で決着する。 4世紀から続いた高句麗、百済、新羅三国の領土争い、そして、7世紀後半の高句麗、百済滅亡と新羅による朝鮮半島統一。これらが日本の国内情勢と密接に絡み合い、多くの渡来人を受け入れることにつながった。


【飛鳥寺造営】

 国内初の本格寺院、飛鳥寺の造営は、百済工人の技術力抜きには考えられない。『元興寺縁起』や『日本書紀』によると、崇峻元(588)年、寺院建築専門の工人として太良未太(だらみだ)と文賈古子(もんけこし)、ほかに露盤博士、瓦博士、画工ら総勢8人の技術スタッフが百済から派遣された。合わせて仏舎利も献上されたという。

 発願したのは蘇我氏の全盛期を築いた馬子。伽藍の完成は推古14(606)年のことだった。現在は飛鳥大仏を本堂に祭る小さな寺だが、奈良文化財研究所が昭和31年から行った発掘調査により、「一塔三金堂」と呼ばれる特異な伽藍(がらん)配置が明らかになった。

 塔を囲むように3つの金堂が配置され、現在の本堂は中金堂あたりに建てられている。奈文研所長も務めた坪井清足氏は、四天王寺式の伽藍配置を想定して調査に取りかかったエピソードを紹介している。国内最古の仏教寺院である以上、それは当然のことだった。

 南門、中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ形式で、古代の百済地域で多数見つかっていた。逆に「一塔三金堂」は確認されておらず、高句麗の勢力圏だった平壌市の上五里(じょうごり)廃寺などで見つかっている。何らかの理由で高句麗の伽藍配置をまねたに違いない。

 しかし、屋根にふかれた軒丸瓦の文様は明らかに百済のもの。一方で、須恵器の技法で平瓦を作るなど、国内の在来工人が百済人の指導を受けながら飛鳥寺の造営工事に参加していたことも明らかになった。

 渡来人の活躍の場は、建築や土木工事だけではなかった。織物や作文、通訳などでも指導的な役割を果たした。国宝として現代に伝わる天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)を作った東漢末賢(やまとのあやのまつけん)もその一人。聖徳太子の妃、橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が、成仏した太子をしのんで作らせたという。

 5世紀から波状的に訪れた渡来人たちは、桧隈を拠点に飛鳥の都市景観、文化を形成していった。『続日本紀』に記された東漢氏の一派、坂上氏の上表文によると、高市郡桧前村は阿知使主の子孫と17県の人々で満ち、他姓は1、2だったという。高松塚古墳の周辺は、渡来人のまさにメッカだった。

 高松塚古墳の被葬者を渡来系の人物と考えるのは、ある面自然な流れといえる。一方、直木孝次郎・大阪市立大学名誉教授(古代史)は、宣化天皇の宮が桧隈に営まれたことに注目。「桧前が渡来者の勢力にぬりつぶされていたと考えるのもゆきすぎ」(吉川弘文館『飛鳥その光と影』)として、天皇家の人々が葬られた可能性もあると指摘している。


 崇峻天皇暗殺と東漢氏

 飛鳥の形成に大きな功績を残した東漢氏だが、血生臭い政争の場面にも姿を見せる。蘇我氏の横暴を象徴する事件として伝えられる崇峻天皇暗殺。馬子の命でそれを実行したのは東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)だった。献上されたイノシシを見た崇峻天皇が「このイノシシの首を切るように、にくいと思うやつを殺してしまいたい」と話したのが引き金になったと書紀は記す。しかし、背景には崇峻の母、小姉君(おあねのきみ)と、用明・推古両天皇を生んだ堅塩媛(きたしひめ)の争いがあったとされる。いずれも稲目の娘で、天皇位は用明、崇峻、推古と移る。飛鳥の政権を影で支えた東漢氏だが、天武天皇は「お前たちの仲間はこれまでに7つの悪事を働いた」と叱責。渡来系の氏族も、時代の流れにほんろうされていた。


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