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第二部 被葬者の迷宮

渡来人が住んだ集落跡 渡米人への視線〔4〕

 明日香村の地図を広げると、高取町との境に桧前(ひのくま)の地名が見える。『日本書紀』にたびたび登場する「桧隈」は、この集落を中心とする地域と考えられ、東漢氏(やまとのあやうじ)に代表される多くの渡来人が住んだとされる。想定範囲は研究者によって異なるが、飛鳥川と高取川に挟まれた同村西南部であったことは確かなようだ。高松塚古墳やキトラ古墳はそのような地域に築造された。


於美阿志神社
渡来人の里、桧隈に鎮座する於美阿志神社。
十三重塔は東漢氏の氏寺だった桧隈寺の名残り
(明日香村桧前)


【清水谷遺跡の発見】

 平成13年の暮れ、高取町清水谷の国道169号西側で、床にオンドルを設けた5世紀後半の建物跡が見つかった。何本もの柱を壁土で塗り込めた「大壁」と呼ばれる構造で、オンドルとの組み合わせは朝鮮半島そのまま。伽耶(任那)諸国の土器も見つかり、町教育委員会は「東漢氏の拠点地域の一つ」と発表した。

 5世紀後半と聞いて思い浮かべるのは、稲荷山古墳(埼玉県行田市)の鉄剣銘だろう。昭和53年、奈良市の元興寺文化財研究所が保存処理の途中で発見、表裏合わせて115文字が確認された。「辛亥年」は471年、「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)が倭王武、すなわち雄略天皇(在位456~479年)を指すと考えられている。大和政権の支配はすでに東国まで及んでいた。

 武は「倭の五王」の一人。讃、珍、済、興、武と続く五人の大王は、中国南朝に朝貢し、倭国王として冊封(さくほう=臣下になること)されていた。対高句麗政策の一つだが、中国の皇帝から冊封を受けた日本の王は、「倭の五王」と女王卑弥呼だけといわれる。

 一方、中国南朝の倭国王に対する評価は低く、雄略天皇以降、中国への朝貢は推古天皇の時代まで約120年にわたって途絶えることになる。稲荷山鉄剣銘の「治天下大王」について、熊谷公男・東北学院大学教授(日本古代史)は「倭王権に固有の権威がそなわってきて、中国王朝の権威を借りなくても列島の支配を安定的に行うことができるようになった」(『日本の歴史3大王から天皇へ』)とみる。

 雄略天皇が拠点としたのは泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)で、桜井市脇本で見つかった大型建物などの遺構がそれにあたるとされる。柱穴は直径25~30センチと大きく、大王宮の可能性は高い。続く清寧天皇(在位480~484年)の宮は磐余(いわれ)の地に営まれた。

 磐余は桜井市南部から橿原市東南部付近。6世紀前半には継体天皇の磐余玉穂宮(たまほのみや)も営まれ、飛鳥に都が置かれる六世紀末まで、国内王朝の中心地域だった。ちなみに、大津皇子の辞世の歌に詠まれた「磐余池」は、橿原市東池尻町の御厨子観音東側に広がる水田が有力候補地。

 清水谷遺跡にオンドル付きの建物が建てられたのはそのような時代だった。推古天皇が豊浦宮で即位するのは100年ほど後。飛鳥はまだ未開の地で、「渡来人の里」と呼べる状態だったに違いない。

 『日本書紀』の雄略14年条には、「呉人を桧隈野に住まわせ、その地を呉原と名づけた」とある。呉原は現在の明日香村栗原と考えられ、桧前のすぐ東側。建物跡が見つかった高取町清水谷とはかなり離れた位置にあるが、その付近まで桧隈だったとみることもできる。書紀の記述を裏付ける発見だった。

 古墳時代の渡来人を研究している県立橿原考古学研究所の関川尚功資料室長は「後の飛鳥の基盤が雄略朝にでき始めていたことが分かる。桧隈の地を広く考える必要が出てきたのではないか。渡来人の氏族が五世紀の段階で桧隈に置かれたことが証明された」と評価する。


【桧隈の範囲】

 それでは、古代の桧隈はどの辺りまでを指して呼ばれたのだろう。飛鳥地域には、桧隈とつけた天皇墓が三つある。『延喜式』から拾うと、欽明天皇=桧隈坂合陵、天武・持統合葬陵=桧隈大内陵、文武天皇=桧隈安古岡上陵。

 欽明陵の所在は、宮内庁が治定する梅山古墳(明日香村平田)と見瀬丸山古墳(橿原市五条野町)に分かれるが、いずれにしても現在の橿原市境付近は桧隈だったといえそうだ。

 一方、高取川をはさんで西側は草壁皇子を葬ったとされる「真弓の岡」。現段階で想定できる桧隈の範囲は、大ざっぱに言えば、高取川(西)、橿原市五条野町(北)、天武・持統合葬陵(東)、清水谷遺跡(南)で囲まれた範囲となる。

 和田萃・京都教育大学教授(日本古代史)は、高取町清水谷から桧前にかけて「桧隈条里」「呉原条里」と呼ばれる特殊な条里制が敷かれていたことを指摘している。実は、古代の桧隈に、天皇の宮が営まれた時期があった。宣化天皇(536~539年)の桧隈廬入宮(いおいりのみや)で、現在の於美阿志(おみあし)神社あたりと推定されている。和田氏は、この時期に東漢氏によって特殊条里が施工されたと考える。

 同神社の境内には、東漢氏の氏寺だった桧隈寺の十三重石塔が残る。奈良文化財研究所の発掘調査によって、同寺の伽藍(がらん)配置が極めて特殊だったことが明らかになった。塔を中心にして金堂と講堂が南北に置かれ、その入り口はいずれも塔側を向いていた。講堂は朝鮮半島に特有の瓦積み基壇で、東漢氏の氏寺だったことが裏付けられた。

 飛鳥地域にはほかにも、坂田寺や呉原寺、軽寺など、渡来人によって造営された寺が数多くあったと考えられている。


 雄略天皇

 倭の五王が中国南朝の冊封を受けたのは、朝鮮半島の強国高句麗を意識してのことだった。『宗書』には、倭王武(雄略天皇)が皇帝にあてた上表文が全文掲載されている。「高句麗は無道で隣国を侵略しようとしています。辺隷(百済)を襲って殺りくをやめようとしません…」。これに対する宗王朝の対応は冷淡で、武を安東大将軍に昇格させただけ。高句麗はもちろん、辺隷(隷属国)と記した百済の王よりも格下だった。これが冊封体制の離脱につながる。古代史に画期をもたらしたとされる雄略天皇だが、『日本書紀』の記録を見ると、激越な性格だったらしい。書紀は「自分の心だけで専決されるところがあった」と伝える一方、「徳の高い王」としての側面も紹介している。葛城の山中で一事主神(ひとことぬしのかみ)に出会い、ともに狩りを楽しんだ逸話などが有名。御所市の一言主神社にこの神様が祭られている。


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