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第二部 被葬者の迷宮


「滅亡百済の王」眠る 渡米人への視線〔3〕

 キトラ古墳に描かれた天文図が高句麗と密接な関係を持つことは、研究者の間ですでに定説化したといえる。北に約1.2キロ離れた高松塚古墳を並列で扱うことに批判的な見方もあるが、画題に高句麗壁画との共通性が指摘されていることは前回紹介した通り。しかし、日本(倭)に大陸の先進文化を伝えたのは、同じ朝鮮半島にあった百済だった。千田稔・国際日本文化研究センター教授(考古学)は、百済王禅広(ぜんこう)こそ、高松塚古墳の被葬者という。


百済大寺とみられる金堂基壇
桜井市の吉備池廃寺で見つかった百済大寺とみられる金堂基壇。
東西36メートル、南北27メートルまで確認された
(平成9年2月、桜井市吉備)


【白村江の敗戦】

 7世紀前半の朝鮮半島には、高句麗、百済、新羅の3国が並立していた。北部の高句麗は隋の侵攻を受けるが、逆に打ち破って滅亡に追い込んだ。百済は強国高句麗の力を借りて新羅に対抗。それに先立つ舒明3(631)年、王子の余豊璋(よほうしょう)を人質として日本に送ってきた。新羅との緊張が強まる中、同盟関係の強化が目的だったとみられている。

 日本は4世紀ごろから朝鮮半島南端の伽耶(任那)を通じて百済と関係を強め、朝貢を受ける立場にあった。有事の際に援軍を送る見返りとして、百済からは医博士(くすしのはかせ)や暦博士が派遣された。

 655年、百済・高句麗の連合軍は新羅に攻め入った。新羅から救援を求められた唐は宿敵高句麗に兵を進めるが、強力な高句麗軍の前に3度にわたって敗退してしまう。皇帝高宗の脳裏には、高句麗征伐に失敗した隋の末路がよぎったに違いない。そして、13万の大軍を百済に向けた。強敵の高句麗を滅ぼすには、まず百済を消し去ることが良策と考えた結果だったといわれる。

 唐・新羅の連合軍は現在の韓国扶余(ぷよ)にあった百済の王城を包囲、脱出に成功した義慈王ら百済王家の一族も捕らえられ、660年に百済は滅亡した。しかし、日本には王子・余豊璋がいた。逃げ延びた百済の遺臣たちは、余豊璋を擁して百済を再興しようと立ち上がる。その送還と救援を求める使者が日本に到着したのは、滅亡から3カ月後の同年10月。

 女帝・斉明天皇(在位655―661年)は「危なきを助け、絶えたものを継ぐのは当然である。その志を見捨てることはできない。王子のために十分な備えをし、送り遣わしなさい」と命じた。そして自らも本営となる筑紫に向かって出発する。

 瀬戸内海を船で進みながら各地で兵を集め、翌年の5月、現在の福岡県朝倉郡にあった朝倉宮に入った。ところが、3カ月にわたる船旅がたたったのか、7月には帰らぬ人となった。

 後を受けた中大兄皇子は、天智2(663)年、いよいよ援軍の派遣に踏み切った。その兵2万7000人と『日本書紀』は記す。ところが、前年無事に帰国して王位についた余豊璋は、百済再興に燃える将軍・鬼室福信(きしつふくしん)を謀反の疑いで殺してしまう。正念場での内紛は唐・新羅連合軍に幸いした。百済と日本の連合水軍は白村江で大敗、300年の歴史を誇った百済は歴史の舞台から完全に姿を消した。


【倭の百済王】

 戦いの約30年前、人質として日本に送られたのは、余豊璋一人ではなかった。実はもう一人の王子、余禅広(善光)が同行していた。そして、日本に残ったまま故国滅亡という悲運に見舞われる。『続日本紀』によると、持統天皇の時に百済王の称号を与えられ、死後、正広参(正三位相当)を賜った。息子の百済王昌成は父より先にこの世を去ったという。

 千田氏は百済王禅広を高松塚古墳、息子の昌成をキトラ古墳の被葬者と推定している。築造年代はキトラ古墳が若干早いとみられるからだ。天武天皇(在位672~686年)が占星台を設けたのは昌成死去の翌年で、飛鳥地域における天文学への関心が、キトラ古墳に反映された可能性もあるという。

 「舒明天皇以降、当時の天皇や皇子の墓は原則として八角形。円墳の高松塚古墳は天皇家に結びつかない」。八角形の墳丘は道教の思想が根底にあると考えられ、八つの方位が宇宙全体を表す。そこに眠るのは全天の支配者「宇宙王」かその近親者だった可能性が強い。高松塚古墳にも星宿や四神図で宇宙観が表現されているが、外からは見ることができない。

 天皇家に連ならないため外形は円墳としたが、埋葬施設の内部には宇宙王にふさわしい世界が描かれている。それは被葬者が百済王であるから…。

 千田氏は「故国を失った百済王のため、出身地の伝統に即した墓を造ってあげたのだろう。壁画の見事さをすぐ皇族に結び付けるのは日本人の悪いくせ。草壁皇子を葬ったとされる束明神古墳がそうだったように、天皇家の墓には壁画を描く習慣がなかった」と話す。

 日本と百済の親密さをうかがわせる史実として、千田氏は舒明天皇(在位629~641年)の百済宮と百済大寺造営に注目している。余豊璋と余禅広が人質として送られたのは、舒明3(631)年のことだった。「宮に外国の国名をつけるのは極めて異例。当時の日本は百済に大変な親近感を抱いており、百済王家をサポートする気持ちが強かったのだろう」。滅亡した百済王家に対する天皇家の思いやりが、高松塚古墳壁画を生んだのかもしれない。


金堂基壇

 平成4年、明日香村飛鳥の酒船石遺跡でブロック状の砂岩を積んだ石垣が10メートルにわたって見つかった。『日本書紀』には斉明天皇が「宮の東の山に石垣を築いた」とある。調査した村教育委員会は、この石垣が記述に一致する可能性が強いとする。
 研究者の間では、朝鮮半島の緊張関係をにらんで設けた山城とする見方も出された。石垣が築かれた斉明2(656)年は、高句麗・百済と唐・新羅の連合軍が激しく戦火を交えていたころ。百済が滅びれば、唐や新羅の侵攻が直接日本に及ぶ危険もあった。白村江への出兵も、そのような時代背景をもとに行われたとされる。飛鳥が主戦場となった場合、背後の山城に入って戦おうとしたのかもしれない。
 ただ、砂岩は非常にもろく、積んだ石を頑強に固定した様子もなかった。『日本書紀』の同じ斉明2年条に記された両槻宮(ふたつきのみや)にあてる説は出土当時から出ていたが、丘陵の北側で亀形石造物が見つかった平成12年以降、化粧的な石垣とする見方が強まっている。


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