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 第二部 被葬者の迷宮


高句麗の画題に共通性 渡米人への視線〔2〕

 キトラ古墳で朱雀の壁画が見つかった時、比較の対象となったのが、高句麗の江西大墓と中墓に描かれた四神図だった。いずれも古墳壁画の傑作で、韓国でも最高峰に位置づけられている。また、天文図から緯度を割り出した宮島一彦・同志社大学教授(東アジア天文史)は、「原図は高句麗で作られた可能性が強い」と結論づけた。高松塚古墳の中間報告書でも、高句麗壁画との関連性が指摘されている。


キトラ古墳の朱雀
今にも羽ばたこうとする躍動的な姿で描かれたキトラ古墳の朱雀。
盗掘による損傷を免れ、1300年後の現代によみがえった
(明日香村提供)


【高句麗壁画との比較】

 高句麗の古墳壁画は、時代とともに主題が変化していく。最初のころは被葬者や従者を描いた人物風俗画、そこに四神図や飛天図が加わり、やがて四神図だけを壁面いっぱいに描くようになる。江西大墓、中墓は四神図が主体で、高句麗が衰退を始める七世紀前半の古墳とみられている。

 ただ、高松塚古墳の玄武は25センチほど。大きさも画風も、高句麗の四神図とはかなり異なる。キトラ古墳も同じで、百橋明穂・神戸大学教授(美術史)は、「江西大墓や中墓の四神図を見ても、その図像と表現は動勢をあらわにし、まとまりのよい細密画としてのキトラとは共通性が少ない」(『キトラ古墳学術調査報告書』)と指摘している。時代がさかのぼると、違いはさらに大きくなるという。

 日本独自の画風の確立について百橋氏は、律令制下の中務省に画工司(がこうし)が置かれたことに注目。大宝元(701)年のことで、絵画などの制作を担当した。キトラ古墳の画風を高く評価する同氏は「本格的な倭の絵の誕生」とみる。

 同古墳で初めて確認された朱雀は、尾を長く引き、片足で地面をけって飛び立とうとする躍動的な表現。中国や朝鮮半島の四神図を研究してきた網干善教・関西大学名誉教授(考古学)は、朱雀図を「静止」「歩行」「飛翔」「頡頏(けっこう)」の4つに分類している。キトラ古墳の朱雀は「頡頏」に含まれ「高句麗の朱雀とはまったく異なり、かなり日本的な表現」という。


【キトラ天文図は高句麗の空】

 しかし一方で、キトラ古墳に描かれた天文図は朝鮮半島と密接な関係がある。最も近いとされるのが、李氏朝鮮(朝鮮王朝)の時代に作られた「天象列次分野之図」。同図に付記された銘文から、原図となった石刻星図が高句麗の都・平壌にあり、戦乱で大同江に沈んだことが分かる。

 戦乱は唐・新羅連合軍の対高句麗戦争とする見方が有力。大同江に沈んだのは、高句麗が滅ぼされた668年ごろの可能性が強い。後になってこの星図の印本が見つかり、洪武28(1395)年に修正・復元されたという。これが「天象列次分野之図」として現代に伝わっている。

 橋本敬造・関西大学教授(科学技術史)は、沈んだ石刻星図の拓本かそれをもとにした星図が日本に伝わり、キトラ古墳の原図になったと考える。さらに、やや時期の遅れる高松塚古墳では、キトラ星図をもとに周極星の位置を決めた可能性もあるという。

 宮島教授の緯度計算は、天文図の中心に描かれた内規(地平線下に沈まない星の限界線)と赤道の半径を比較することで行われた。導き出された数値は「北緯38~39度」。ちょうど高句麗の平壌付近にあたる。これらの結果をもとに宮島教授は「キトラの原図が高句麗で作られ、天文観測に使われたことは間違いなかろう」(『東アジアの古代文化鮖・讖痊)としている。璽

 両教授の作ったキトラ星図は、星座の想定などにかなりの違いを生じたが、原図を高句麗に求める点では一致している。高松塚古墳の星宿図に内規や赤道はなく、より図式的な印象が強い。時代もやや新しいとみられるが、ほぼ同時期の兄弟古墳であることは間違いない。

 堀田啓一・高野山大学教授(考古学)は「7世紀代の高句麗壁画は四神図が主体で、技法などにもかなりの違いがある。しかし、高松塚古墳には高句麗の画題がすべて統合されており、それを視野に置いて被葬者を考える必要がある」と話す。

 日本の横口式石槨を編年した堀田氏は、高松塚古墳の築造年代を680~700年ごろとみる。高句麗の滅亡は668年。「故国を追われた人々が向かうのは日本列島しかない。亡命してきた高句麗の王族クラスを被葬者と考えることもできるのでは」。亡命から数世代後の絵師が日本化された壁画を高松塚古墳に描いた―。堀田氏はそのように推定している。

 遣唐使にも加わった黄文連本実(きぶみのむらじもとみ)は、両古墳の壁画を描いた有力候補。高句麗系の渡来氏族で、四神図の原図が代々受け継がれていたのかもしれない。


 高句麗

 朝鮮半島北部を拠点とした古代国家。中国の支配拠点だった楽浪郡を滅ぼして勢力を拡大、427年には平壌城に遷都して百済、新羅への圧力を強めた。六世紀末以降は中国の隋と対立。隋の皇帝・煬帝(ようだい)は大軍を派遣するが、高句麗軍を破れず、逆に国民の反発を買って国の滅亡を招いた。しかし、国力が疲弊したのは高句麗も同じで、642年には泉蓋蘇文(せんがいそぶん)が国王と高官を皆殺しにして政権を奪取、傀儡(かいらい)政権を樹立した。しかし、この事件が唐に高句麗征伐を決意させた。殺された国王が唐の柵封(さくほう=王位などを与えて臣下にすること)を受けていたためで、3年後の645年には早くも攻勢が始まる。新羅も終盤で参戦。泉蓋蘇文没後の内乱に乗じた唐・新羅連合軍は、668年に首都・平壌を落として高句麗を滅亡させた。


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