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第二部 被葬者の迷宮


物部の総帥眠る伝統墓 築造時期と被葬者〔5〕

 壁画発見から30年が過ぎ、高松塚古墳を巡る年代観は、平城遷都(710年)を境にして大きく二つに分かれている。藤原京時代の築造とすれば、天武の皇子たちが被葬者候補の主人公。一方、平城京時代と考える研究者の間では、物部系の左大臣・石上麻呂(640~717年)が大きな位置を占める。古墳研究の第一人者で石上麻呂説を展開している白石太一郎・国立歴史民俗博物館教授(考古学)に、発掘30年後の被葬者像を聞いた。


奈良時代の古墳
平城遷都を境に年代観が分かれる高松塚古墳。
白石太一郎氏は「奈良時代の古墳」と考える


【築造は平城京時代】

―築造時期をどのように考えますか。

 白石 発掘当時は藤原京時代の古墳とされ、都が奈良に移ってからの時代は考えられなかった。しかしその後、マルコ山古墳や石のカラト古墳が調査され、横口式石槨の実態がはっきりしてきた。マルコ山、石のカラト、キトラの三古墳は天井に台形状の繰り込みがある。横口式石槨は家形石棺が変化したと考えられ、繰り込みが最も深いキトラ古墳から順に、石のカラト、マルコ山、高松塚の形式学的編年が可能となる。

 ただ、石のカラト古墳とマルコ山古墳は時期差をつけにくい。石のカラト古墳は平城京の北側(奈良山丘陵)にある。4世紀から5世紀には佐紀古墳群が営まれたが6、7世紀にはこれといった古墳がない所。そんな時代に有力者の墓が造られたとは考えられず、平城遷都後の可能性が非常に強い。マルコ山古墳と合わせ、710年前後に位置づけられるのではないか。形式が新しい高松塚古墳は2つの古墳より10年近く遅れる。


【人物像は一位の格式

―石上麻呂説に立つ根拠は。

 白石 平安時代の「貞観儀式」には、朝廷で行う「元日朝賀の儀式」の次第が詳しく書かれている。高松塚古墳に描かれた官人たちの持ち物は、その内容とすべて一致する。亡くなられた岸俊男先生(京都大学名誉教授)が早くから指摘されたように、壁画は被葬者の威儀を示すもの。そこに描かれた蓋(きぬがさ)も、当然被葬者に差しかけたと考えられる。

 「儀制令」では、身分によって蓋の色や形が規定された。高松塚古墳の蓋は深い緑色で、総(ふさ)が垂れる形式からも一位の人物に限定できる。ところが、7世紀末~8世紀初めに一位で死んだ人物はいない。死んでから一位を授かった人物が2人おり、それが石上麻呂と藤原不比等。石上麻呂は正二位で亡くなり、元正天皇から従一位を与えられた。

 岸先生も当然気がついておられたと思うが、1300年前の古墳だけに、変色の可能性もあるとして石上麻呂の名前は挙げられなかった。

 もう一つ、これは末永雅雄先生(県立橿原考古学研究所初代所長)も大変気にしておられたが、正倉院に金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうからたち)という見事な刀が伝わっている。同じものが三本あり、聖武天皇の持ち物と考えてよいだろう。山形金物などの外装具は高松塚古墳の大刀と同じ形。両者は同形式の大刀といえる。

 そうすると、平城京に移ってからの古墳と考えざるを得ないのではないか。石槨の形態からも大刀の形式からも、高松塚は710年以降の古墳と考えてよいと思う。そうなれば、被葬者が石上麻呂であってもいっこうに差し支えない。

―壁画をどのように解釈されますか。

 白石 キトラ古墳には人物像がなく、代わりに十二支が描かれていた。星宿、日月、四神は宇宙観を表し、十二支も時間的な概念。石槨内に死者の小宇宙を作ろうとしたのだろう。当時の壁画は宇宙観の表現が原則で、人物像はむしろ例外。では、高松塚古墳になぜ人物像が描かれたのか。

 石上麻呂は物部氏。蘇我氏によって宗本家が滅ぼされた後、残った一族は苦難の連続だったろう。それが石上麻呂の時代に左大臣まで上りつめた。太政大臣が置かれなかった当時は左大臣が最高位。今でいえば内閣総理大臣にあたる。しかも、死後に従一位まで賜った。一族にとって大変な喜びだったはずで、感激と一位の格式を人物像で表したのではないか。藤原京の近くに墓が造られた理由も石上麻呂なら説明がつく。

 藤原京時代の後半は、右大臣の藤原不比等が実権を握るようになっていた。平城京遷都を強行したのも不比等で、天皇や石上麻呂は反対だった。遷都後、石上麻呂は藤原京の留守司として残ったが、これは不比等に対する一種の抵抗だったのではないか。内閣総理大臣に相当する人物が古い都に残るのは異常。不比等の画策とも考えられるが、石上麻呂の意志が強かったと思う。

 720年に亡くなった不比等も同じように従一位を賜った。年代的には高松塚古墳の被葬者に該当するが、「延喜式」によれば墓は多武峰にある。あらゆる観点から考えて被葬者は石上麻呂。石のカラト古墳を不比等の墓という人もいるが、高松塚古墳よりも古く、その可能性はない。

―出土した人骨の鑑定は「熟年男性」でした。

 白石 鑑定が間違っているということではなく、あの程度の残り具合では年齢を厳密に言うことはできない。想定を否定するほどの確実性はない。「割合に年をとった男性」という面ではむしろ石上麻呂に合致する。

―「聖なるライン」をどう考えますか。

 白石 ライン上に乗っているのは天武陵だけ。高松塚古墳もキトラ古墳も少しずれる。重要なのは、藤原京時代やそれ以降の古墳が全部ラインの西側にあるということ。そこが藤原京の墓域だったと考えられ、律令体制の頂点に立つような人たちが葬られたのだろう。「聖なるライン」というよりも、墓域の東限がこの線になるのではないか。


【火葬との関係】

―平城京の時代であれば火葬もあり得るのでは。

 白石 持統天皇の火葬以後、文武、元明、元正の三天皇はいずれも火葬された。それに対して、大和の有力豪族は伝統的な古墳(高塚)を重視する意識が強かったのではないか。天武・持統天皇の存命中、豪族たちは天皇家に押さえられて大きな力が持てなかった。ところが持統の死後、天皇家の力は弱まってくる。

 そのような時期だからこそ、大和の伝統的な古墳が復活できたのではないか。高松塚古墳は終末期というよりむしろ奈良時代の古墳。皇族たちの火葬が一般化しているその時期に、大豪族が伝統的な古墳を築いた。天武・持統の時代であれば、無理だったろう。


【キトラ古墳の被葬者】

―兄弟古墳ともいえるキトラ古墳の被葬者は。

 白石 直木孝次郎氏(大阪市立大学名誉教授)が指摘しておられるように、キトラ古墳のあたりは古くから阿部山と呼ばれていた。石上麻呂の前任者に阿倍御主人(あべのみうし)がいる。大宝三(703)年に右大臣(従二位)で亡くなった。このあと石上麻呂が右大臣となり、左大臣へと上がっていく。

 高松塚古墳を左大臣・石上麻呂の墓と考えてよければ、同じような構造のキトラ古墳には、阿倍御主人が葬られた可能性が非常に強いと思う。両古墳とも、被葬者に天武の皇子を当てる説が多い。考古学の責任でもあるが、いずれも年代を古く考え過ぎていた。藤原京時代という結論の上に天武の皇子たちがいる。しかし、高松塚古墳が平城京時代とすれば、石上麻呂の可能性は非常に強くなる。

 被葬者は皇族ではない。阿倍氏や物部氏など、大和の有力豪族でしかも律令政権で最高位に就いた人物が葬られた。被葬者は年代の厳密な検討に基づいて言わないと説得力がない。その結果導き出したのが石上麻呂だった。

―キトラ古墳では保存処理に向けた発掘調査が来年にも始まります。

 白石 キトラ古墳も高松塚古墳も四神の意味をきっちり押さえ、中国思想を正確に反映している。こんな古墳は中国や朝鮮半島にもないと思う。発掘によって年代がより明確になることを期待したい。


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