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第二部 被葬者の迷宮


蓋の色や骨変化で推理 築造時期と被葬者〔4〕

 哲学者梅原猛氏は人骨の鑑定年齢に疑問を提起し、30歳前後で死んだ弓削皇子を被葬者に挙げた。高松塚古墳はその怨霊を封じる「塚」という。故島五郎・大阪市立大学教授(解剖学)の鑑定結果は「熟年男性」だが、中間報告書では「それ以上」の可能性も否定していない。そこから浮かび上がったのが石上朝臣麻呂という人物だった。「熟年男性」をはさんで梅原説とは逆の年齢層に位置している。被葬者候補の中で存在感を高めており、支持する研究者も多い。


発掘調査で宮殿構造の解明が進む藤原宮跡
発掘調査で宮殿構造の解明が進む藤原宮跡。
平城遷都後、留守司として残されたのが石上麻呂だった
(平成13年月、橿原市高殿町)


【高齢者にも可能性】

 人骨の鑑定について島氏は、中間報告書の補遺論文を県立橿原考古学研究所の創立35周年記念論集(昭和50年発行)に掲載している。頸椎(けいつい)骨の発育程度から「人骨の推定年齢は壮年者以下ではなく、熟年者あるいはそれ以上である」と一歩踏み込んで断言した。石上麻呂の没年齢は78歳。現代でこそほぼ男性の平均寿命だが、当時は大変な長生きだったに違いない。

 石上麻呂をはじめて被葬者候補に挙げたのは、稲荷山鉄剣銘のスクープで知られる元毎日新聞記者、岡本健一・京都学園大学教授。同社の学芸部員として高松塚古墳の取材を担当した。

 当時は考古学者が被葬者を論じることがタブー視され、もっぱら「文献史学の仕事」と考えられていた。発掘の総指揮者だった故末永雅雄・橿考研所長も被葬者への言及を戒め、直木孝次郎氏(現大阪市立大学名誉教授)の忍壁皇子説が唯一の被葬者論だったという。発掘現場を指揮した網干善教・関西大学名誉教授や伊達宗泰・花園大学名誉教授は、被葬者について今も決して語ろうとはしない。

 「毎年一回、高松塚古墳に関する研究の進展をまとめて記事にしていた。『忘れられた被葬者はいませんか』と研究者に聞いて回るうち、石上麻呂という人物がいることに気付いた」と岡本氏は話す。その考えを記事にしたのは、発掘の翌年、昭和48年のことだった。

 岡本氏が着目したのは東壁の男子群像にさしかけられた蓋(きぬがさ)の色。「儀制令」(701年)の規定によると、皇太子の蓋は紫色で四角く、総(ふさ)が垂れる。一位は深い緑、三位以上が紺。ちなみに四位は縹色(はなだいろ=薄いあい色)。高松塚古墳の蓋は深い緑色に描かれていた。

 直木氏は否定(本連載)したが、蓋が被葬者にさしかけられたとすれば、高松塚古墳に眠るのは一位を授けられた人物となる。ただし、変色していないことが条件。

 岡本氏は「日本画や自然科学の専門家に聞いたところ、変色の可能性は低いということだった。被葬者が皇族でないのは明らか。701~710年の間で一位に叙せられた人物はおらず、平城遷都以降に目を向けた時、石上麻呂が浮かび上がる」という。


【石上麻呂という人物】

 石上麻呂(640~717年)は物部氏の流れを汲み、「壬申の乱」では近江方で活躍した。『日本書紀』は「左右の大臣や群臣は逃げたが、物部連麻呂と1、2の舎人(とねり)だけが従っていた」と伝え、自害した大友皇子を最後まで守った人物として知られる。

 八色の姓(かばね)では第二位の朝臣(あそん)を賜り、慶雲元(704)年に右大臣、和銅元(708)年には左大臣となって天皇を補佐した。生前の位階は正二位だが、死後、従一位に昇進している。平城遷都後は藤原宮の留守司に任じられた。

 近江方に参陣したにもかかわらず、天武が築いた勝者の時代に左大臣まで昇進。天皇を守る武人として強い信任を得ていたからで、藤原宮ともつながりが深い。それゆえ死後は帰葬され、文武陵(中尾山古墳)の隣りに葬られた-。岡本氏はそのように考える。

 ただ、持統天皇の火葬を基準点とすれば、石上麻呂の没年は火葬の流行期。岡本氏はしかし「歴史の逆転はあり得る」という。また、古代にも高齢者が珍しくなかった例として、山上憶良(74歳没)、行基(82歳没)、吉備真備(83歳没)らの名前を挙げる。

 おもしろいのは『竹取物語』と人骨の鑑定を結び付けた考察。石上麻呂は、かぐや姫に求婚する貴公子の一人「いそのかみのまろたり」として物語に登場する。美しい姫が望んだのは「燕の子安貝」。燕を何匹つかまえてもそんなものは見つからず、乗り込んだ籠(かご)を釣り上げさせて軒下の巣を探る。手には確かに触れるものが。喜んだのもつかの間、バランスを崩して仰向けに転落してしまう。

 子安貝と思ったのはあろうことか燕の糞。墜落の後遺症と精神的なショックで「いそのかみのまろたり」は間もなく息を引き取る。まことに気の毒な話だが、X線撮影された高松塚古墳の頸椎骨には「変形性骨変化」が認められた。鑑定にあたった研究者チームは前出の橿考研論集で「頭部外傷歴や乗馬の習慣等を考慮したい」と述べている。籠から落ちた時に頭を強打したとすれば…。

 『竹取物語』は創作だが、現実に起きた石上麻呂の転落事故が王朝社会にインプットされ、平安時代の物語に反映されたのかもしれない。岡本氏はそんな風に想像を膨らませている。


信任厚い石上麻呂

 『続日本紀』の記述から、石上麻呂が天皇の厚い信任を得ていたことがうかがえる。養老元(717)年3月に石上麻呂が死ぬと、元正天皇はその死を悼んで政務を休み、長屋王らを派遣して「従一位」の位を贈った。一般の民衆も同じように死を惜しみ、追慕したという。天皇のそば近く仕えた武官でもあり、持統天皇の伊勢行幸にも同行している。万葉集に収録された元明天皇の御製


ますらをの 鞆(とも)の音すなり 物部(もののふ)の
    大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも


は宮門を守る石上麻呂のことを詠ったともいわれる。


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