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第二部 被葬者の迷宮


石槨内にのろいの封印 築造時期と被葬者〔3〕

 「頭蓋骨のみがその小破片すら全く発見されていない-」。高松塚古墳には被葬者の小型骨が数多く残されていたが、当然あるべき頭蓋骨だけは見つからなかった。人骨の鑑定にあたった故島五郎・大阪市立大学教授(解剖学)は、昭和47年に発行された中間報告書の中で、「甚(はなは)だ不思議」と述べている。発掘から30年が経過した今も、謎は解決されていない。この事実をもとに弓削皇子の怨霊塚説を展開したのが梅原猛氏だった。


石槨北壁に描かれた玄武
石槨北壁に描かれた玄武。
蛇とカメの顔は無残に削られていた
(中間報告書『壁画古墳高松塚』から)


【浮かび出る怨霊】

 高松塚古墳の石槨(せっかく)内にあった人骨は一体分で、甲状軟骨や舌骨など、小型の骨が中心だった。中間報告書に掲載された鑑定結果は、以下の3つに要約できる。(1)筋骨の発育が良好な男性(2)憶測身長は163センチ(3)推定年齢は塾年者あるいはそれ以上(壮年者以下である確立は低いが、老年者である確立も否定できない)。直木孝次郎・大阪市立大学名誉教授が提示した被葬者の条件にも、「熟年男性」が含まれていた。

 推定年齢の割り出しは、骨の化骨化(骨組織の形成度合い)が基準となる。出土した甲状軟骨は、ほぼ全体が化骨化していた。島氏の報告によると、30~40歳の甲状軟骨は後縁まで、50歳以上になるとその上部まで化骨化するという。これらのデータをもとに「年齢は恐らく壮年者以下ではなく、熟年者あるいはそれ以上」との推定を導き出した。舌骨も同じだった。

 問題の頭部は、頚椎(けいつい)などの骨が残っていることから「斬首のごときはあり得ない」という。古墳人骨であっても頭蓋骨は残っているのが普通。斬首以外の方法で頭部を除いて埋葬したか、盗掘者が頭蓋骨を持ち去ったことになる。

 その著書『隠された十字架』で法隆寺の謎に迫った梅原氏は、高松塚古墳でも石槨(せっかく)に秘められた呪いの封印を発見した。(1)人骨に頭蓋骨がない(2)大刀の刀身が見つかっていない(3)日月像と玄武の顔が削り取られていた-の3つ。暗い石槨内で頭蓋骨を探し出し、鞘を残して刀身だけを持ち去る…。梅原氏はその必要性に疑問を持ち、埋葬当初から3つが欠落していたと考えた。

 ここで、火葬の普及以前に行われていた殯(もがり)の風習を思い出してほしい。遺体をすぐに埋葬せず、一定期間小屋などに安置する葬法で、古代の日本社会では一般的に行われていた。天皇の場合は殯宮(もがりのみや)が設けられ、天武天皇は2年2カ月、持統天皇の殯も1年間に及んだ。遺体の傷みが相当進んだことは間違いない。

 梅原氏は、高松塚古墳の被葬者が、埋葬時すでに白骨化していたと推定。その遺体から頭蓋骨を抜き取り、刀身のない鞘を添えて埋葬する。それは何よりも蘇ることを阻止するため。壁画には儀式に参列する官人が描かれているが、その主役には首がない。刀身を抜き去ったことで三種の神器も不十分。首のない王が暗い墓の底で朝賀の儀式を行い、死の世界ゆえに玄武や日月像が削りとられた-。


【弓削皇子の怨霊】

 『続日本紀』は、大宝元(701)年に行われた新年祝賀儀式(朝賀の儀式)の様子を伝えている。大極殿の正門前には、青竜、朱雀、玄武、白虎の四神と日月像の幡(はた)が立てられたという。同じ儀式が高松塚古墳の中でも行われていたのだろうか。

 弓削皇子は正史である『続日本紀』にほとんど登場せず、万葉集の世界でその存在を知られる。異母兄妹の紀皇女に寄せた恋歌も収録されているが、梅原氏は紀皇女こそ文武天皇の妃だったと考えた。弓削皇子は軽皇子(文武天皇)の即位に口をはさもうとして叱責を受けた人物。おまけに天皇の妻に近づいたとあれば、その身に危険が及ぶのは避けられない。

 これらのことから梅原氏は「高松塚から出現する怨霊は、弓削皇子の怨霊に違いないと思うようになった」(新潮社『黄泉の王』)という。万葉集の残された弓削皇子の歌には、この世をあきらめたような悲哀が漂っている。

滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむとわが思はなくに

 皇位への野心と紀皇女への思いを秘めた弓削皇子は、持統天皇の迫害心を買って殺されたのではないか。梅原氏は万葉集に残された弓削皇子の歌からそれを感じ取った。そして、壁画が描かれたのは被葬者に王位の幻想を与えるためと結論づけた。「弓削皇子よ、あなたはあこがれの帝位についたのだ。見よ、帝位のしるしの四神の旗はひるがえり、日月、星宿、すべてあなたの帝位をことほいでいるではないか」(『黄泉の王』)。

 しかし、そこは封印された死後の世界。頭部を持ち去られた以上、二度とこの世に蘇ることはできない。皇位をめぐって幾多の血が流された古代の精神世界を垣間見るようで恐ろしい。

 ただ、問題となるのが鑑定の推定年齢。弓削皇子は天武の第6皇子で、死亡時の年齢は30歳前後と推定される。熟年男性には遠く、可能性が低い壮年男性に含まれる。梅原氏は歯の鑑定結果を再検証し、「熟年男性」に疑問を提起している。


殯(もがり)

 天皇が死ぬと殯宮(もがりのみや)が設けられ、皇子らの近親者が集まって呪術的な祭祀が行われた。何日間も声を上げて悲しみを表し、遺体には何らかの防腐措置も施されたと思われる。585年に死んだ敏達天皇の殯は5年8カ月に及んだ。斉明天皇(594~661年)も妹の間人皇女(孝徳皇后)と合葬されるまで、5年以上にわたって殯が行われた可能性がある。梅原猛氏は『黄泉の王』の中で「殯の期間というものは、人間の白骨化の期間なのであろうか」と述べている。持統天皇の火葬以降、その風習は衰退。元正天皇(680~748年)は「葬儀を盛大に行い、人民の生業を壊すことはしない。かまどを造って火葬し、他の場所に移してはならない」と遺言している。


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