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第二部 被葬者の迷宮


火葬の普及ポイントに 築造時期と被葬者〔2〕

 高松塚古墳を平城遷都後の帰葬と考える場合、火葬の普及は見過ごして通れない問題である。記録上、国内初の火葬が行われたのは文武4(700)年。玄奘三蔵に師事したことで知られる名僧・道昭(629~700年)が、遺言に従って荼毘(だび)に付された。『続日本紀』は「天下の火葬はこれから始まった」と伝える。その後、大宝2(702)年に病没した持統天皇をはじめ、文武、元明、元正の3天皇はいずれも火葬。立派な漆塗り木棺が納められた高松塚古墳は、火葬の普及以前に築造されたとも考えられる。


禅院の門に伴う石敷き
道昭が住んだ禅院の門に伴う石敷き。
飛鳥寺の東南隅から見つかった
(平成11年4月、明日香村飛鳥)


【火葬からの考察】

 河内国に生まれた道昭が、遣唐船で海を渡ったのは白雉四(653)年。唐では玄奘三蔵に師事して禅定(座禅)を学び、10年近い歳月を過ごした。帰国の時に三蔵から授かった経典の中には、般若心経が含まれていたといわれる。三蔵は経典とともに鍋を授け、この鍋を海中の竜神に与えることで、一行は無事帰国することができた。

 天智元(662)年には飛鳥寺の東南隅に禅院を建てて住んだと『日本三代実録』に見える。多くの仏教修行者が道昭のもとで禅を学び、弟子となった。火葬が行われたのは栗原の地(現在の明日香村栗原)で、遺骨の灰は風に巻かれて行方が分からなくなったという。持統天皇の火葬は道昭の死の3年後。明日香村野口の天武・持統合葬陵(大内陵)には、金銅製の蔵骨器に入った持統の火葬骨と天武の棺が納められている。

 菅谷文則・滋賀県立大学教授は、火葬の普及が高松塚の被葬者を考える上で重要なポイントになると考えている。「道昭は唐で見た火葬の様子を持統天皇に話していたのだろう。最高権力者である天皇が国内最先端の火葬を採用したことには大きな意味があったはず」と話す。

 日本には六世紀後半ごろから「かまど塚」と呼ばれる埋葬施設が登場し、道昭以前にも火葬の風習があったとみられている。粘土を塗った墓室に遺体を納め、最後に火を放って焼く仕組みだが、仏教思想に裏打ちされた風習とみるには疑問を持つ研究者が多い。

 それまで、皇族クラスの人物が亡くなると、遺体を安置する施設を設けて喪に服するのが慣例だった。天皇の場合、通例で1年程度、長ければ数年にも及んだ。

 和田萃・京都教育大学教授は「殯(もがり)の研究」と題した論文(『日本古代の儀礼と祭祀・信仰』の中で「短時間で肉体が白骨に化すという事実はまさに驚天動地のことであって、耐えがたいほどに印象深いものだったに違いない」と述べ「火葬は仏教教理に明るい人々、道昭や持統太上天皇の遺命によってはじめて行いえたのである」と指摘している。


火葬を中心とする出来事

653 白雉4 道昭が入唐、玄奘三蔵に師事
662 天智元 道昭が飛鳥寺の東南隅に禅院を創建
664 天智3 玄奘三蔵が死去
694 持統8 藤原京に遷都
699 文武3 弓削皇子が死去
700 文武4 道昭が死去、栗原で火葬される
703 大宝3 持統天皇が飛鳥の岡で火葬され、大内陵に葬られる
705 慶雲2 忍壁皇子が死去
707 慶雲4 文武天皇が崩御、火葬の上、桧隈安古陵に葬られる
710 和銅3 平城京に遷都、石上朝臣麻呂が藤原京の留守司となる
721 養老5 元明天皇が崩御、火葬の上、椎山の陵に葬られる
748 天平20 元正天皇が崩御、火葬の上、佐保山陵に葬られる

 河上邦彦・県立橿原考古学研究所副所長も「土葬していた人々がいきなり火葬になじむというのは考えられない。土葬→改葬→火葬という流れが7世紀代に絶対あったに違いない」(橿考研編『古墳が消えるとき』)という。平成12年に調査された橿原市の植山古墳(6世紀末~7世紀前半)は、扉構造のある西石室が、改葬前の推古陵だったとみられている。

 高名な僧と天皇が先陣を切ったことで、その後、火葬は急速に普及した。それに合わせて殯の習慣もなくなり、元明天皇(661~721年)は死後6日目、続く元正天皇(680~748年)も一週間で葬られている。

 菅谷氏は「705年に死んだ忍壁皇子も火葬された可能性が強い」と指摘。火葬の導入を一つの基準点とする立場から、天武の第六皇子、弓削皇子(699年没)を被葬者候補の筆頭に挙げる。年代的には川島皇子(691年没)も有力候補だが、万葉集は「越智野(高取町越智付近)に葬る」と伝えている。「平城遷都後の帰葬は反逆行為。出土した須恵器の形式からも、藤原京に都が置かれた直後の古墳であることはまず覆らない」。問題の石のカラト古墳については「新田部皇子(735年没)の墓ではないか」という。

 同氏が指す須恵器は、高松塚古墳の基盤層直下で見つかった。壁画の発見が発表された直後で、築造時期の特定につながる資料を得たいという執念でもたらされた成果だった。関西大学生として調査に参加した兵庫県芦屋市教委文化財課の森岡秀人係長は「藤原京の時代より新しい土器は含まれず、築造時期を710年以降に置くことはできない」と話す。

 被葬者を弓削皇子とする研究者には梅原猛氏がおり、同氏の唱えた怨霊塚説は、大きな話題を巻き起こした。石槨(せっかく)内で見つかった熟年男性とされる人骨について、今一度考える必要がありそうだ。


飛鳥池遺跡と道昭京

 明日香村の飛鳥池遺跡では、道昭が開いた禅院の築地塀跡や門の石敷きが見つかっている。県立万葉文化館の建設に伴い、奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)が飛鳥寺の東南隅を発掘調査。人頭大の石が東西7.3メートル、南北2.8メートルの範囲に敷き詰められていた。築地塀は基壇の側石を約25メートル確認。飛鳥池の工房群とは幅10メートル近い道路で隔てられていた。この発見に先立つ平成10年には、同じ飛鳥池遺跡で瓦窯跡が出土。瓦の文様から、道昭の禅院にふかれた瓦を焼いたことが分かった。見つかったのは登り窯の燃焼部(幅2.2メートル、長さ2.3メートル)で、800点以上の瓦片も出土した。
 『続日本紀』によると、玄奘三蔵は道昭を同じ部屋に住ませてかわいがり、日本で禅を広めるように諭した。帰国後、道昭は教えに従って弟子を育て、井戸を掘ったり、橋を架けたりしながら各地を歩いた。京都の宇治橋を建設したのも道昭とされる。南都六宗に数えられる法相宗を伝え、72歳でこの世を去った。臨終の際に呼び寄せた弟子の一人、知調の名を記した木簡も、飛鳥池遺跡で見つかっている。


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