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第二部 被葬者の迷宮


平城遷都後築造の説も 築造時期と被葬者〔1〕

 藤原京の南側に集中する古墳を直線的にとらえるか面的に見るか。そのいずれもが、藤原京を明確に意識した墓造りだったことを前提としている。しかし、平城遷都後に造営された古墳が含まれるとすればどうか。石槨(せっかく)に大きな共通性がある高松塚、キトラ、マルコ山の兄弟古墳が、平城京の北側(奈良山丘陵)で一基だけ見つかっている。奈良市の「石のカラト古墳」で、墳丘は上円下方形。兄弟古墳の造営が遷都後の「帰葬」だとすれば、被葬者のとらえ方も大きく変わってくる。


マルコ山古墳
松塚古墳の兄弟古墳の中では、最も古く位置づける研究者が多いマルコ山古墳。
明日香村教委の相原氏はキトラ古墳と石のカラト古墳の方が古いと考える


【兄弟古墳の築造順序】

 4つの古墳の築造時期は、7世紀後半~8世紀初めごろと考えられている。埋葬施設はいずれも横口式石槨で、長さ約2.6~2.7メートル、幅約1~1.3メートル。マルコ山古墳だけがひと回り大きい。

 明日香村教育委員会文化財課の相原嘉之技師は、石槨天井部の形に注目し、キトラ→石のカラト→マルコ山→高松塚の築造順を導き出した。高松塚古墳を除く三基の天井石には、台形状の彫り込みがある。相原氏は、彫り込みの傾斜角度をもとに「屋根型指数」を計算してみた。それによると、最も指数が高いのはキトラ古墳で77。次いで石のカラト古墳の57~58。マルコ山古墳は41。

 家形石棺の形式変化は新しいほど傾斜角度が小さく、平らに近い形となる。同じ視点で4つの石槨を見た場合、屋根状の彫り込みがない高松塚古墳まで、順に時代をたどることができる。

 ただ、平城京北側に位置する石のカラト古墳は、ふき石のすき間で見つかった「平城II式」と呼ばれる土器形式などから、奈良時代の古墳と考える研究者が多い。築造順序はマルコ山→キトラ→高松塚→石のカラトが一般的。

 この点について相原氏は「平城Ⅱの土器は転落した石のすき間で見つかっており、崩れた時期を示すにすぎない。1基の古墳だけで奈良山丘陵を平城京の墓域と考えるには無理がある」と話す。さらに、飛鳥時代の皇族が飛鳥地域以外にも古墳を造っていることから「藤原京の南側に限定する必要はなく、奈良山丘陵にあってもおかしくない」とする。

 和田萃・京都教育大学教授が指摘したように、真の文武陵とされる中尾山古墳の築造時期は、高松塚古墳より新しく位置づけることができる。文武天皇の没年、慶雲4(707)年が上限となり、石のカラト古墳も含めて飛鳥時代に築造されたと相原氏は考える。


【故亀田博氏の考察】

 県立橿原考古学研究所調査第2課長を務めた故亀田博氏は、季刊「明日香風」の74号に「高松塚古墳と中尾山古墳はどちらが古いのか」と題した論文を掲載している。亀田氏は高松塚古墳の発掘調査に関西大学の院生として参加。学生たちのまとめ役として活躍した。

 石のカラト古墳について亀田氏は「なによりも平城京の北郊にあることを重視すべき」として、飛鳥時代に含める見方を否定。同古墳と高松塚、キトラ、マルコ山の造営時期を「平城遷都直後」とした。「明日香村の3基の古墳は遷都後まもなく亡くなり、藤原宮南郊の伝統的な陵墓地に帰葬された人の墓とみられる」という。天井の傾斜角度についても「時期による漸次な変化とは考えられない」と相原氏の見解を否定している。

 亀田氏が注目したのは中尾山古墳で出土した土器の形式。「飛鳥IV式」の古いタイプで、7世紀の第4四半期に区分される。高松塚古墳の築造時期を示す土器より一形式古く、中尾山→高松塚の築造順を導き出した。

 菅谷文則・滋賀県立大学教授も石のカラト古墳を奈良時代の築造とみるが、帰葬については「それを認めると(被葬者の特定が)フリーハンドになってしまう」と懸念。マルコ山→キトラ→高松塚→石のカラトの築造順を想定し「高松塚古墳までは飛鳥に王朝があった時期と考えたい」と話す。

 草壁、大津、高市、忍壁ら天武の主な皇子はいずれも和銅3(710)年の平城遷都までに死亡している。高松塚古墳が遷都後に「帰葬」された人物の墓だとすれば、これら皇子を被葬者候補に入れるわけにはいかない。

 遷都直後の飛鳥地域には飛鳥寺などの寺院が残り、宮殿の苑池も水をたたえていたはず。天武の孫にあたる淳仁天皇(在位758~764年)は、平城宮改修の間、飛鳥の行宮(かりみや)で政治を行った。奈良に都が移った後、荒涼の地となったわけではない。懐かしい飛鳥への「帰葬」を想定した場合、どのような被葬者像が浮かび上がるのだろう。


石のカラト古墳

 近鉄高の原駅近くの丘陵にあり、尾根を少し下った棚地に墳丘を構える。周辺の住宅開発に伴い、県が昭和53年に発掘調査を行った。一辺13.7メートルの下方部に直径9.2メートルの上円部が乗る。版築(はんちく)工法で丈夫につき固められ、全体がふき石で化粧されていた。凝灰岩の切り石を組み合わせた横口式石槨は長さ2.6メートル、幅0.03メートル、高さ1.06メートル。しっくいは塗られておらず、壁画もない。しかし、側壁に3枚の切り石を用いるなど、高松塚古墳と極めて類似した規格・構造を持っている。主な副葬品は盗掘で失われていたが、金・銀製の玉や銀装唐様太刀の鞘(さや)金具、金ぱく片などが出土。超一級の古墳であることが分かった。鞘の金具が銀製である点も高松塚古墳と共通している。現在の墳丘はふき石などが復元整備されている。周辺の奈良山丘陵に同時代の古墳はなく、平城京との関係が議論の対象となっている。


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