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第二部 被葬者の迷宮


藤原京の南に死者の都 天武の皇子たち〔6〕

 藤原京の中軸線に結ばれる「聖なるライン」は、軸線を微妙にはずれる古墳を取り込むため「聖なるゾーン」と呼ばれることがある。直線に帯状の幅を持たせば、鬼の雪隠(せっちん)・俎(まないた)古墳まで取り込むことができる。しかし、マルコ山古墳と束明神古墳は1キロ以上西に離れ、意図的にはずしたか、別の意味があったと考えざるを得ない。猪熊兼勝・京都橘女子大学教授は北斗七星を想定したが「聖なるライン」そのものが成り立たないと考える研究者もいる。


真の文武陵といわれる中尾山古墳
真の文武陵といわれる中尾山古墳。
墳丘には木が生い茂り、石槨の一部が露出している(明日香村平田)


【死者の都】

 故岸俊男・京都大学名誉教授が想定した藤原京の範囲は南北3.2キロ、東西2.1キロ。大藤原京では内郭に相当する。これを京域の南西にもってくると「聖なるライン」を東辺にして長方形の墓域が想定できる。県立橿原考古学研究所の河上邦彦副所長は「中国の陵園制度をまねて天武の陵園をつくろうとしたのではないか」とみている。

 唐代の中国では、皇帝墓の周囲に家族や家臣が葬られ、巨大な陵園が形成された。周囲が60キロに及ぶこともあった。河上氏は「藤原京の南には天武・持統朝の古墳が集中しており、地図におとすと内郭と同じ面積になる。これが天武の陵園で、その中に皇子、皇女を葬ったのではないか。同時期の古墳は今後も発見される可能性があり『聖なるライン』は成り立たない」と話す。

 古墳の築造に風水思想が反映されたのと同じように、陵園制度の大枠が中国から輸入され、天武がそれを採用した-。集中する古墳を面でとらえようとする点で「聖なるライン」とは対照をなす。大津皇子と高市皇子が別の場所に葬られたのは、持統に遠ざけられたからと同氏はいう。

 藤原京の南西に墓域が想定できることは、菅谷文則・滋賀県立大学教授も早くから指摘していた。「藤原京は『生者の都』。南側の墓域は『死者の都』で、そこには生前と同じようなディスプレイが必要だった」。高松塚古墳に男女群像が描かれたのは、被葬者が生前見ていた風景を「死者の都」に再現したからかもしれない。


【かど野王も被葬者候補】

 高松塚古墳の北側に、真の文武陵といわれる中尾山古墳がある。墳丘は三段築成の八角形。頂上部に90センチ四方の横口式石槨(せっかく)があり、昭和49年の調査で火葬墓と確認された。

 宮内庁が陵墓に指定している文武天皇陵は高松塚古墳をはさんで南側だが、八角形の墳丘は天皇墓の証とされ、火葬の事実からも中尾山古墳を文武陵と考える研究者は多い。持統の後を継いで大宝律令の制定を成し遂げた文武は、慶雲4(707)年にこの世を去った。

 『続日本紀』によれば、遺体は飛鳥の岡で火葬され「桧隈安古山稜(ひのくまあこのみささぎ)」に葬られたという。和田萃・京都教育大学教授は『日本書紀』に登場する「赤穂」と「安古」が同じ地域を指すとみる。天武の娘で大友皇子に嫁いだ十市皇女と天武夫人の氷上娘は、いずれも「赤穂」の地に葬られた。中尾山古墳が文武陵とすれば、そこがまさに「安古」(赤穂)の地。近くには天武につながる2人の女性が眠っていることになる。

 ただ、高松塚古墳の被葬者は熟年男性。母親の墓近くに葬られた人物は誰なのか。『延喜式』によると、桧隈安古山稜の兆域(墓域)は東西三町南北三町。高松塚古墳は谷をはさんで隣りの丘陵にある。天皇の兆域内に墓を造ることは考えにくく、高松塚古墳が先に存在した可能性が強い。これらの考察から和田氏は、大友皇子と十市皇女の間に生まれた、かど野王を被葬者候補の一人に挙げる。

 「高松塚古墳は安古(赤穂)の地域にあって墳丘規模もやや小さい。中尾山古墳が文武陵とすれば、かど野王を被葬者候補に加えてもよいはず。血筋の点からも説明しやすい」。同地域にある未調査の古墳には、天武の夫人や皇女が眠る可能性が強いという。

 かど野王が没したのは文武に先立つ慶雲2(705)年。粟田真人ら第7回遣唐使が帰国した翌年で、忍壁皇子の死から半年後のことだった。海獣葡萄鏡の副葬も可能で、年代的な条件は中国社会科学院考古研究所の王仲珠氏らの主張と一致する。

 一方、南に1キロあまり離れたキトラ古墳について和田氏は「同列に論じられることも多いが、別の地域と考えた方がよい」と指摘する。渡来人の拠点地域「桧隈」を間にはさむのがその理由。「石槨を築造した集団や絵師に共通性があるだけで、被葬者の身分とは直接結びつかない。キトラ古墳は渡来系氏族に近い人物と考えた方がよいのではないか」としている。


メモ かど野王

 「壬申の乱」に敗れた大友皇子の長男。『懐風藻』が伝えるところでは、学問好きで歴史に詳しく、文章を作ることが好きだった。その上度量もあった。高市皇子が死んだ後、皇太子を決める話し合いが宮中でもたれた。論議が紛糾した時、かど野王は次のように言ったという。「わが国では子孫が相続して皇位を継ぐことになっている。兄弟が相続すればそこから争乱が起こるだろう。天子の世継ぎは決まっており、よけいな事を言うべきではない」。子孫とは持統の孫にあたる軽皇子。天武の皇子たちが皇位の射程圏内にある中、持統の孫にあたる軽皇子の立太子を当然とする発言だった。これを聞いて意見を述べようとした弓削皇子を、かど野王が一喝したという。翌697年、軽皇子は文武天皇として即位した。


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