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第二部 被葬者の迷宮


皇子眠る聖なるライン 天武の皇子たち〔5〕

 高松塚古墳の上空から目を北にやると、ほぼ真北の方向に耳成山が鎮座している。万葉集に詠まれた大和三山の一つ。端正な山容は藤原宮の大極殿跡から今も美しく眺めることができる。宮の中軸線は南で高松塚古墳を結び、「聖なるライン」と呼ばれてきた。天武・持統合葬陵(大内陵)をはじめ、多くの終末期古墳がその線上にひしめく。


春日神社境内に眠る束明神古墳
藤原宮の大極殿跡から南をのぞむ。
約3.5キロ向こうに天武、持統両天皇が眠る合葬陵がある(橿原市高殿町)


【藤原京と高松塚】

 藤原京の造営は、天武天皇によって計画された。「日本書紀」を見れば、天皇自ら造営地を決めたことが分かる。皇后持統の病気平癒(ゆ)を願って天武9(680)年に発願された薬師寺(本薬師寺)も、網の目のような条坊にきっちりと収まる。

 京外に目を向け、天武・持統合葬陵が藤原京の中軸線上にピッタリ乗ることを指摘したのは故岸俊男・京都大学名誉教授だった。同氏は藤原京の造営プランを南北3.2キロ、東西2.1キロと考え、中軸線を割り出した。藤原京の南京極からキトラ古墳まで約3キロ。この間に菖蒲池古墳、天武・持統合葬陵、中尾山古墳、高松塚古墳、文武天皇陵と五つの終末期古墳が並ぶ。

 「聖なるライン」はマスコミの造語だが、同氏の指摘をもとに、天武の皇子か皇女たちがこれらの古墳に葬られたと考える研究者は多い。

 直木孝次郎・大阪市立大名誉教授もその一人。高松塚古墳の被葬者が「朱鳥元(686)年から和銅3(710)年に亡くなった人物」としたのも、「聖なるライン」を意識してのことだった。朱鳥元年は天武が亡くなった年。藤原京の造営プランが決まっていなければ、中軸線上に陵を造ることはできない。同じ理由で、藤原京の時代に高松塚古墳が造営されたと考える。

 しかし、藤原京の中軸線と正確に一致するのは天武・持統合葬陵だけで、他の古墳は東西に若干ずれる。さらに、草壁皇子の墓とされる束明神古墳とマルコ山古墳が完全に外れることから、「聖なるライン」を疑問視する声も強い。

 この点について直木氏は「京域を外れるとどうしても地形に左右される。厳密に造営するのは難しい。束明神古墳のある丘陵も重要な埋葬地だったと考えられ、すべてが直線上に位置する必要はない」と話す。

 藤原京の範囲は近年の発掘調査で5.3キロ四方の「大藤原京」が定説化しつつある。しかし、中軸線は変わっておらず、キトラ古墳の調査で「聖なるライン」が再びスポットを浴びることになった。


聖なるラインに連なる古墳

【聖なるラインは北斗七星】

 被葬者の特定に慎重な姿勢を見せる研究者が多い中、猪熊兼勝・京都橘女子大学教授は「古墳に表札を上げよう」をスローガンに、さまざまなアプローチを続けてきた。「墓誌が現れるのは八世紀以降。しかもトップクラスの墓からは出てこない。古代史を具体的に理解するためにも、一定の条件がそろえば名前を挙げてよい」と話す。

 猪熊氏は最近、GPS(自動座標測定器)を手にして「聖なるライン」を訪ねた。藤原宮大極殿の中軸は東経135度48分24秒。これに対して、天武・持統合葬陵=同29秒、中尾山古墳=同21秒、高松塚古墳=同22秒、キトラ古墳=同19秒。同氏は「10秒と誤差がなく、まさに驚異的。天文学を含む正確な測定技術を持っていたのだろう」と驚く一方、平城宮が大きくはずれることから、これらの古墳が藤原京の時代に営まれたとする。

 ラインを北に延ばすと京都市の天智陵(同25秒)にたどりつく。束明神古墳とマルコ山古墳を「聖なるライン」に組み込むことで、北斗七星が描けることに同氏は気付いた。ひしゃくの柄の先端が天智陵、コの字型の南端がキトラ古墳。「高句麗では北斗七星が天子の象徴だった。『聖なるライン』は皇族を示しているのではないか」と指摘する。「藤原宮の中軸線を押さえたのが天武天皇。孫の文武天皇が北斗七星を完成させた」との考えだ。

 文武天皇(在位697~707年)は若くして亡くなった草壁皇子の息子。母の元明天皇は天智天皇の娘で、北斗七星がはるか北の天智陵を取り込んで形成されたこともうなずける。

 高松塚古墳の被葬者について同氏は、直木氏と同じ忍壁皇子説に立つ。「四神図や星宿は皇族の独占物だった。あれだけの壁画が描けるのは天武直系の皇子しかいない。人骨の鑑定年齢からも忍壁皇子がクローズアップされる」。マルコ山古墳には磯城皇子(没年不明)、キトラ古墳に弓削皇子(699年没)の「表札」を上げたいと考えている。

 二つの家形石棺が安置された菖蒲池古墳や鬼の雪隠・俎古墳も「聖なるライン」に含まれる可能性があるが、藤原京期の古墳ではないと同氏はみている。


 大藤原京

 藤原京造営の経過は「日本書紀」に詳しい。持統4(690)年10月条に「高市皇子が藤原の宮地を視察され、公卿百官がお供した」とあり、これが「藤原宮」の初見。翌持統5年10月には地鎮祭を行い、役人の宅地面積を決める詔(みことのり)も出された。天皇自ら完成した大路を視察するなど、工事は着々と進んだらしい。ただ、新しい都の造営を発案したのは天武天皇で、「壬申の乱」から4年後、天武5(676)年のことだった。
 京域の範囲は、古代の幹線道路で四方を区画する岸俊男氏の学説が定説化、教科書にも掲載された。しかしその後、想定京域外で条坊の間を通る道路が相次いで見つかり、大藤原京説が生まれた。その規模を決定づけたのは橿原市の土橋遺跡(平成8年)で、大藤原京と呼ばれてきたエリアのはるか西側で西十坊大路と北四条大路のT字路が見つかった。この発見で東西5.3キロの京域規模がほぼ確定。岸説の約4倍の大きさだった。大和三山がすっぽり入る。このうち、政治の中心である藤原宮は約1キロ四方を占めた。


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