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第二部 被葬者の迷宮

注目される忍壁皇子説 天武の皇子たち〔4〕

 色鮮やかな壁画に抱かれて眠った人物は誰なのか。その答えは高松塚古墳の築造時期をどう設定するかによって大きく異なる。石室が凝灰岩の切り石で造られていること、副葬品の種類などから、7世紀末~8世紀初めとする説が有力。ただこの時期、政治の中心だった場所は一つではない。天武・持統の飛鳥浄御原宮から藤原京、さらに和銅3(710)年には平城京へ。大宝律令の施行で日本の政治システムが大きく変化した時期でもあった。国家的なレベルで造営された高松塚古墳には、時代背景が色濃く反映されている。


【服装からのアプローチ】

 高松塚古墳の石槨(せっかく)に描かれた人物は16人。石材のすき間に流れ込んだ水や漆喰(しっくい)のはく落で傷んでいたが、そこには被葬者探しのヒントが隠されていた。

 当時、役人たちの服装は、天皇が出す詔(みことのり)によって細かく規定された。例えば、天武13(684)年には、「朝廷に参集する日は襴(すそつき)のある衣を着用して長い紐を垂らせ。男子は圭冠(はしはこうぶり=烏帽子)があればそれをかぶり、括緒褌(くくりおのはかま)を着けよ」と命じている。

 襴は上着に着ける布。高松塚古墳の人物像には、上着のすそ近くに細い線がくっきりと描かれている。この線から下が襴で、帯のように結んだひもは長め。天武の詔に沿った服装といえそうだ。

 さらによく観察すると、男子の襟が左前であることに気付く。直木孝次郎・大阪市立大学名誉教授らが指摘しているように、襟の右前が全国に下命されたのは養老3(719)年2月。高松塚古墳の男子像はそれ以前の服装ということになる。

 また、女子の上着の裾からのぞく褶(ひらみ)は、天武11(682)年3月の詔で着用が禁じられ、大宝律令(701年)で再び認められた。東壁の男子群像に描かれた蓋(きぬがさ)には、ひものような総(ふさ)が表現されている。当時の規定で総を垂れることが許されたのは、大納言以上だった。


【被葬者は忍部皇子】

 人物像の観察に四神壁画や立地を加え、直木氏は被葬者の条件を導き出した。(1)死亡年代は藤原京の造営プランが整った朱鳥元(686)年から平城京遷都まで。または大宝元年から養老3年(2)大納言以上の身分(3)熟年男子。これら条件で天武の皇子たちを照らすと、忍部(刑部)皇子が浮かび上がる。吉野から「壬申の乱」に従軍し、大宝律令を編集した人物。『続日本紀』によると、慶雲2(705)年5月に死没した。

 直木氏は「上位の皇子はそれまでに死んでおり、皇族の中でも非常に重要な地位にあった。金ぱくを張った漆塗り木棺や立派な壁画から考えても忍部皇子が第一候補」と話す。享年は47、8歳と推定され、年齢の点でも矛盾しない。

 亡くなった皇子たちに可能性はないのだろうか。忍部皇子より序列が上位だったと考えられる皇子は4人。(1)草壁(2)大津(3)高市(4)川嶋(天智の皇子)の4皇子で、すでに紹介したように、草壁皇子の墓は束明神古墳(高取町佐田)が有力。刑死した大津皇子は二上山に葬られた可能性が強い。

 年齢的には天武の第一子、高市皇子がピッタリだが、『延喜式』は被葬地を三立岡(北葛城郡北部)と伝えており、矛盾が生じる。川嶋皇子も記録上の被葬地と一致しない。

 忍部皇子説を別な角度から補強したのは中国社会科学院考古研究所の王仲殊氏。王氏の有名な著書『三角縁神獣鏡』に、県立橿原考古学研究所で行った講演(昭和57年)の内容が掲載されている。副葬品の海獣葡萄鏡がポイントだった。

 王氏は陝西省で見つかった高松塚古墳の同笵(型)鏡が7世紀末の鋳造とした上で、同じ鏡が日本にもたらされた時期を慶雲元(704)年の第七回遣唐使帰国時と推定した。日本を出発したのは大宝元(701)年。実に30年ぶりの派遣で、この間、日本は新羅との交流を積極的に進めた。海獣葡萄鏡は朝鮮半島で見つかっておらず、30年ぶりの遣唐使が、鋳造間もない海獣葡萄鏡を直接持ち帰った可能性が高いと王氏は考えた。

 この前提に立つと、7世紀代に亡くなった皇子が海獣葡萄鏡を副葬することはできず、忍部皇子だけが被葬者になり得るとする。

 王氏と直木氏の学説は、互いを補強する役目を持っている。

 桧隈(ひのくま)の草葉の陰に光りしは高松塚の宝の鏡 =王氏=
 高松の塚の主を照らせしは海獣葡萄の鏡の光 =直木氏=


 被葬者を忍部皇子に当てる学説は、高い論理性によって多くの研究者に支持されている。ただ、盲点となるのが東壁男子群像に差しかけられた緑色の蓋。当時の規定では「一位」の位階を示すが、皇子は別格の紫と決められていた。この点について直木氏は「被葬者のために差しかけた蓋とは言い切れず、忍部皇子を否定する根拠にはならない」と話す。

 一方、網干善教・関西大学名誉教授は、一位に相当する人物として、藤原鎌足(669年没)、石上麻呂(717年没)、藤原不比等(720年没)の3人を挙げる。ただし、規定が最高限度を示したもので、下位の色でも構わないとすれば天皇や皇子の可能性もあるとの考えだ。


海獣葡萄鏡

 中国の唐代を代表する鏡の一つ。中央に想像上の獣を置き、周囲に葡萄の文様がある。葡萄唐草文は西域の伝統的な文様で、シルクロードを通じた中国との交流をうかがわせる。正倉院宝物にも含まれる。高松塚古墳の鏡は良質な白銅製で、今年3月に亡くなった帝塚山大学短期大学部名誉教授、大伴公馬氏のコレクションにも同型鏡がある。鏡研究の第一人者、樋口隆康・県立橿原考古学研究所長は同古墳の中間報告書で「日本出土の海獣葡萄鏡の内では最も大型で文様が精緻」と指摘している。


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