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第二部 被葬者の迷宮

草壁皇子眠る真弓の丘 天武の皇子たち〔3〕

 夫・天武との間に生まれた草壁皇子が28歳の生涯を閉じた翌年、皇后持統は飛鳥浄御原宮で即位の儀式を行った。律令国家の基礎を築いた天武の政治を受け継いだのは、「壬申の乱」で奮戦した高市皇子でも文武の才に恵まれた大津皇子でもなく、皇后その人だった。藤原京造営と大宝律令の制定という大事業を成し遂げる女帝は、こうして歴史の表舞台に登場した。


春日神社境内に眠る束明神古墳
春日神社境内に眠る束明神古墳。墳丘は夏草に覆われていた
(高取町佐田)


【草壁皇子と束明神古墳】

 天武の死後、皇后持統の称制(即位せずに天皇の権力を行使すること)は約3年に及んだ。眼中にあったのは草壁皇子の即位。その急逝が大きなショックであったことは間違いない。ただ、『日本書紀』の記述は「皇太子草壁皇子尊(みこと)が薨去(こうきょ)された」といたって簡単。謀反の罪で葬られた大津皇子の方がよほど詳しい。父天武が度量を見込んだ大津皇子と母持統に推された草壁皇子。2人の人望の違いは、そんな所にも表れている。

 草壁皇子の墓は、高取町佐田の束明神古墳が最有力候補。県立橿原考古学研究所(橿考研)が昭和59年に発掘調査を行い、凝灰岩の切り石を積み上げた大規模な石室が見つかった。大きさは奥行き約3.1メートル、幅約2メートル、高さ約2.5メートル。高松塚古墳と同じ横口式石槨(せっかく)に分類される。その規模は、天皇になり得た皇子にふさわしい。

 万葉集には

 朝日照る佐田の岡辺に群れ居つつわが泣く涙やむ時もなし

 よそに見し真弓の岡も君ませば常(とこ)つ御門と待宿するかも


 など、草壁皇子の死をいたむ舎人(とねり=護衛の下級役人)の歌が収められている。このうち6首に「真弓」と「佐田」の地名が登場する。

 いずれも高取町の北西部から明日香村にかかる地域と考えられ、束明神古墳はまさにその場所で見つかった。被葬者と思われる人骨の推定年齢は青年期後半から壮年期(30歳前後)。28歳で死んだ草壁皇子に当てはまる。

 調査主任だった河上邦彦・橿考研副所長は「さまざまな条件から草壁皇子の墓の可能性が極めて高い。考古学的にもかなりの確立で実証できたのではないか」と話す。重要な根拠の一つは八角形の墳丘。河上氏は天武・持統合葬陵や中尾山古墳との比較から、円墳ではなく八角形墳に復元できるとした。参考にした二基の古墳はともに八角形。中尾山古墳は文武陵説が有力で、天皇陵=八角形墳と考える研究者は多い。

 河上氏は「本来天皇になるべき人物が早く亡くなってしまったため、八角形墳を築造した」とみる。さらに、『続日本紀』の記述にも注目。紀伊に行幸した称徳天皇(718~770年)が草壁皇子の山稜を通過した際、馬を下りて旗を巻くよう従臣に命じたという。紀伊路は国道169号のやや西側を通っており、束明神塚古墳はこの記述に適合する。

 現在の墳丘はうっそうとした春日神社の境内にあり、解説板がなければ分からないほど。昼なお暗く、1万人が詰めかけた現地説明会がうそのように静まりかえっている。

 高松塚古墳の発掘当初、草壁皇子を被葬者とする見方も出されていた。豪華な壁画はいかにもと思わせたが、真弓(佐田)の丘からはずれる上、出土した人骨の推定年齢が「熟年男性」と鑑定されて可能性は薄まった。

 墓誌が出ない以上、古墳の被葬者は、築造時期や副葬品の内容、石室の形式など、分かり得る条件を組み合わせて絞っていくことになる。そこに迷宮への入り口がある。


【被葬者探しの条件】

 ここで、高松塚古墳の発掘成果をあらためて認識しておく必要がある。外形は直径24メートル、高さ9.5メートルの円墳。壁画の保存を最優先して墳丘の北側と西側は未調査だが、これまでのところ、八角形墳との報告はない。尾根の南斜面を選んで築造された終末期古墳。

 遺体を納める石槨は奥行き(南北)2.65メートル、幅(東西)1.03メートル、高さ1.13メートル。四方の壁には「玄武」(北)「青竜」(東)「「白虎」(西)の四神が描かれていた。南壁の「朱雀」は盗掘で確認できなかった。色鮮やかな女子群像と男子群像は、東西の壁面に一対ずつ配置されている。そして、天帝の権威の象徴とされる星宿(せいしゅく)が天井に、やや下の壁面に日像、月像があった。

 さらに、副葬品として海獣葡萄鏡(表面径16.8センチ)が一面と金銅製の棺金具や大刀の外装具などが見つかった。漆塗り木棺の表面は豪華な金ぱく仕上げ。そして、墓の主の年齢は熟年男性。

 これらの条件を複合的に検討することで、どのような被葬者像が見えてくるのだろう。


マルコ山古墳

 束明神古墳の北側わずか500メートルの丘陵にある。昭和53年に発掘調査が行われ、漆喰を塗った横口式石槨が見つかった。石槨の内のりは長さ約2.7メートル、幅約1.3メートルで高松塚古墳よりひと回り大きい。壁画こそ描かれていなかったが、副葬品は金銅装の大刀外装具(高松塚は銀装)や棺金具など、一級の内容だった。「真弓の丘」に含まれる地域で、草壁皇子が被葬者としてクローズアップされた。ところが、人骨の鑑定結果は「30歳代の男性」。立地や埋葬施設の内容はクリアしたが、推定年齢のハードルを越えられなかった。キトラ古墳では四神壁画が確認され、「なぜマルコ山に描かれなかったか」があらためて論議を呼んでいる。


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